上野 岩櫃城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭②竪堀と横堀③主郭切岸④横堀⑤竪堀⑥中城跡

 

訪問日:2019年12月

 

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町

 

 羽尾幸光・輝幸の兄弟は滋野一族の上野羽根尾城主・羽尾景幸の子と伝わる。羽尾氏は岩櫃城を本拠とする斎藤憲広に従っていた。

 

 羽尾氏は天文10年(1541)の海野平の戦いで武田信虎らに敗れた海野棟綱ら滋野一族を庇護したと伝わり、その中には真田幸綱の姿もあったともいう。

 

 天文15年〜17年(1546〜48)頃にかけて幸綱は上野を去り、父・信虎を追放して当主となっていた武田晴信(信玄)に仕えて旧領復帰を目指した。

 

 羽尾氏は同族の鎌原幸定(幸綱の実弟か)と所領争いとなり幸綱が調停していたが、斎藤憲広が羽尾氏に味方しこれに介入、永禄3年(1560)幸定は幸綱を介して武田氏に支援を求めた。

 

 永禄5年(1562)憲広は羽尾氏とともに鎌原城を攻略し、幸重らは信濃に逃れたが、幸綱により程なく奪回されたという。

 

 逆に幸綱は憲広の甥・斎藤憲実や幸光・輝幸兄弟を調略し、永禄6年(1563)岩櫃城を攻略、憲広は上杉氏を頼って越後に落ちた。

 

 幸光・輝幸兄弟は幸綱に従い岩櫃城に入った。彼らは海野棟綱の死後、これを継承したとして海野姓を名乗っている。

 

 天正2年(1574)に幸綱が死去、天正3年(1575)には長篠の戦いで幸綱の長男・信綱と次男・昌輝が討死し、3男の真田昌幸が真田氏当主となる。

 

 天正8年(1580)昌幸が上野沼田城を攻略すると輝幸を城代とした。幸光は引き続き岩櫃城の城代を務めた。

 

 天正9年(1581)昌幸は海野兄弟が北条氏に通じて謀反を企んでいるとして弟の真田信尹に命じて幸光・輝幸を討ち取った。

 

 

以下、現地案内板より

 

岩櫃城跡  東吾妻町指定史跡

 

 岩櫃城は、岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。

 岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は、南朝方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その後、斎藤越前守憲広(基国)まで六代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。

 戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563)斎藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、武田信玄から岩櫃城代に海野幸光が命ぜられ、真田の先兵となり17年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正9年の海野兄弟誅殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁(幸村)がここで一時代を過ごしたとも言われています。

 武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。

 徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長20年(1615)頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。

 

東吾妻町

 

 

岩櫃城由来記

 

 吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は1.4k㎡と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三堅城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主あ斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正18年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長20年[1615])により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。

 

東吾妻町観光協会