丹波 柏原陣屋② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①表御殿②表御殿玄関③長屋門④長屋門⑤太鼓櫓⑥織田家廟所

 

訪問日:2019年11月

 

所在地:兵庫県丹波市

 

 柏原は「かいばら」と訓むが、江戸時代を通じて「栢原」と記載されることがほとんどであったという。栢は柏の異字体である。

 

 嘉永6年(1853)柏原藩8代藩主・織田信敬(宇土藩主・細川行芬の3男)が江戸にて18歳で死去。正室・鶴姫(6代藩主・織田信古の娘)との間に子はなかった。

 

 柏原藩の重臣たちは織田信長の血を引く鶴姫に再婚を求めたが、鶴姫はそれを拒んで髪を切った。このためなかなか相続人が決まらなかった。

 

 安政元年(1854)秋月藩主・黒田長元の4男・叙丸(15歳・織田信民)が末期養子として家督を継いだ。正室には紀州藩附家老の水野忠央の娘・鉏姫を迎えた。

 

 安政5年(1858)信民は小島省斎を教授として藩校・崇広館を設立、省斎とともに藩政改革に臨み、藩論を尊王攘夷とした。

 

 しかし信民は明治維新を迎えることなく慶応元年(1865)26歳で死去、信敬の妹を継室とする旗本・山崎治正の3男の織田信親(15歳)が末期養子として家督を継いだ。

 

 信親は慶応3年(1867)朝廷の求めに応じて上洛、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に与して京都御所などを警備した。

 

 明治5年(1872)の学制発布により、明治6年(1873)当時の豊岡県より柏原藩邸が払い下げられて小学校の校舎となり、崇広小学校と称されて現在に至る。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 柏原藩陣屋跡

 

 陣屋は、元禄8年(1695)に、大和国松山藩(奈良県宇陀市)から2万石で柏原に国替えとなった織田信長の次男・信雄の子孫にあたる信休が、正徳3年(1713)に造営に着手し、翌4年に完成した柏原藩の藩庁・屋敷で、明治4年(1871)まで存続しました。

 当時の規模は、東西130m、南北158mで、現在の崇広小学校、兵庫県柏原総合庁舎の範囲にまで及び、御殿のほか庭園や土蔵、馬場、稲荷神社、幕末には藩校も設けられていました。

 しかし、文政元年(1818)に火災がおき、長屋門など一部の建物を残し焼失しました。

 現存する表御殿は、文政3年(1820)の再建時のもので、焼失をまぬがれた表御門とともに往時の姿を今に伝えています。

 このように大名の陣屋で、建物が江戸時代と変わらず当時の場所に現存するのは、全国でもわずかしかなく、近世陣屋史上貴重な遺構として、昭和46年(1971)に国の史跡に指定されました。

 

 

表御殿・表御門(長屋門)

 

表御殿

 右前方に見える建物は表御殿にあたり、玄関から北側を改築部を除き、文政3(1820)年の再建時の姿が残っています。

 表御殿は、藩主が藩士や来客と対面するなど公的な儀式の場として使用されていた所で、檜皮葺の唐破風と千鳥破風を持つ玄関が特徴となっています。

 

表御門(長屋門)

 陣屋の正面にある表御門は、長屋門と呼ばれる形式のもので、正徳4年(1714)に築造され、陣屋内に残る唯一の創建当初の建造物です。

 

柏原藩陣屋跡整備事業

 平成15年~23年にかけての、柏原藩陣屋跡整備事業において、表御殿の桟瓦葺替え工事、玄関屋根の檜皮葺替え工事、カイズカイブキ移植工事、環境整備工事等が実施され、「旧柏原藩織田邸平面図」を参考に、史跡地範囲内における建物範囲や間取りを、表面表示の工法で整備しました。また表御門(長屋門)に連続する塀を広小路土塀を参考に整備しました。

 

 

国指定史跡 柏原藩陣屋跡

 

指定年月日 昭和46年1月6日

所有者・管理者 柏原町

 

 柏原藩陣屋跡は、正徳4年(1714)に初代藩主織田信休によって造営された柏原藩主織田氏の居館跡である。

 造営当初の建物は文政元年(1818)の火災で焼失し、文政3年(1820)頃に再建されたものが現存する御殿である。

 現在は表御殿の部分と長屋門が残るだけであるが、、門から御殿玄関へと続く構えは全国的に類例が少なく、近世大名の居館を考えるうえでも貴重な遺構として国の史跡に指定されている。

 

平成6年3月 柏原町

 

 

県指定文化財 柏原藩主織田家旧邸長屋門

 

指定年月日 昭和37年7月16日

所有者・管理者 柏原町

 

 柏原藩初代藩主織田信休が、公邸の表御門として正徳4年(1714)に築いたもので、内部は向かって左側が畳敷きの番所、門扉を挟んで右側が板張りの馬見所と砲庫の三室に仕切られている。

 桁行13間半、梁間2間を測り、桟瓦葺きの入母屋造と相対的に簡素な構造ではあるが、数少ない大名邸宅遺構の一つとして貴重である。

 

平成4年11月 兵庫県教育委員会

 

 

太鼓やぐら

 

 江戸時代には、大手通にあって大手門に隣接して北向に建てられていました。内部は三層となっており、最上部には「つつじ太鼓」とよばれる太鼓が吊るされています。

 この太鼓の胴の内側には寛文8年(1668)に製作されその後皮を張り替えた時の銘が残っており、この太鼓が国替えになる前の大和松山藩の時から使用され、柏原移封の際に持ってきたことがわかります。

 この太鼓は、普段は時報として、また藩主が参勤交代で江戸から戻ってきた時や火事の際にもたたかれていました。

 太鼓やぐらが現在地に移ったのは明治初期のことですが、江戸時代の柏原藩にまつわる建造物として当時の面影を伝えています。

 

丹波市観光協会・石田自治会

 

 

柏原陣屋(整備前)