訪問日:2019年8月
所在地:長崎県壱岐市
1918年(大正7年)第一次世界大戦終結後も戦勝国側は海軍力、特に戦艦の増強を進めるが、その経済負担は各国の国家予算を圧迫した。無論日本も例外ではなかった。
そこで1922年(大正11年)ワシントンで海軍軍縮会議が行われ、英・米・日・仏・伊の主力艦保有比率を5:5:3:1.67:1.67に定めるワシントン海軍軍縮条約が締結された。
これにより日本は長門型戦艦を凌駕する八八艦隊の中核を担う予定であった天城型戦艦4隻の建造計画を中止し、「天城」・「赤城」を空母に改装し、「愛宕」・「高雄」の破棄を決定した。
1923年(大正12年)の関東大震災により「天城」が破損したため、これに代わる「加賀」と「赤城」の空母化が正式に通達される(当時は空母の実力は世界的に評価が定まっていなかった)。
空母「赤城」は1927年(昭和2年)に竣工するが、不要となった砲塔は陸軍に移管され、1928年(昭和3年)その一番砲塔を設置した黒崎砲台が竣工する(案内板の「土佐」は間違いのようだ)。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約、1933年(昭和8年)国際連盟脱退を経た、第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉で軍備平等、戦艦など攻撃的艦種の全廃または大幅削減を主張するも不調に終わる。
1934年(昭和9年)日本はワ海軍軍縮条約の破棄を通告し、規定に基づき2年後に脱退、英米もこれに対抗したエスカレーター条項を発動し、世界は制限なき軍艦建造競争の時代に突入する。
1942年(昭和17年)空母「赤城」がミッドウェー海戦で沈没、1945年(昭和20年)敗戦、実戦において黒崎砲台から砲弾が発射されることはなかった。
以下、現地案内板より
東洋一の黒崎砲台跡
概要
この要さいは、戦艦土佐の40センチ主砲を取りつけて造られた。
砲身の全長 18m
砲身体の重さ 150t
砲の口径 40㎝
弾丸の直径 40㎝
弾丸の重量 1000㎏
射程距離 35㎞
郷ノ浦町