近江 朽木陣屋/西山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①御殿跡②移築民家③井戸④陣屋西側⑤裏門付近​​​​​​​​​​​​​​⑥北川と西山城遠景

 

訪問日:2019年7月

 

所在地:滋賀県高島市

 

 朽木宣綱は天正10年(1582)朽木元網の長男として生まれた。友綱は慶長4年(1599)生の次弟、稙綱(曽祖父と同名)は慶長10年(1605)生の3弟、妹に堀直政室(側室か)がいる。

 

 京極高吉と浅井久政娘(洗礼名マリア)の娘(洗礼名マグダレナ)を娶り、慶長3年(1598)に長男(朽木智綱)が、慶長8年(1603)に次男(京極高通)が生まれるが、マグダレナは慶長11年(1606)京都で死去した。

 

 マグダレナの母・マリアの意向によりその葬儀は京都の教会で行われた。これは後に政治問題となり、マリアの姪・淀殿が徳川家康に苦情を申し立てる事件となった。

 

 宣綱もかつての岩上館の地に建立した周林院(秀隣寺)の境内にマグダレナの墓を建て、その本尊は観音像に似た聖母マリア像であったという。

 

 次男・京極高通は伯父である京極高知の養子となり、元和8年(1622)高知の死去により、その遺領のうち1万石を分与され、旧領と合わせて1万3千石の丹後峰山藩を立藩した。 

 

 寛永9年(1632)父・元網が84歳で死去すると、その遺領は宣綱に6300余石、友綱2015余石、稙綱1100余石に分与され、宣綱は大名並待遇の交代寄合に列せられた。

 

 元和4年(1618)から徳川家光に仕えた3弟・稙綱は寛永12年(1635)若年寄に抜擢され、寛永12年(1635)加増され1万石の大名となり、最終的には常陸土浦藩3万石(子孫は丹波福知山藩主)の藩主となっている。

 

 万治2年(1659)長男・智綱に家督を譲った後も、宣綱は父に似て長命であったが、81歳となった寛文2年(1662)近江・若狭を中心に発生した寛文地震で圧死した。

 

 マグダレナの墓があった秀隣寺の地には享保14年(1729)興聖寺が移転し、秀隣寺は数度の移転の後、文化10年(1813)無住となって廃された(後に現在地に再建)。

 

 

以下、現地案内板より

 

朽木陣屋跡 野尻

 

 朽木谷は、京都大原と若狭を結ぶ西近江路の脇街道筋として、古くから経済・文化の通路であったと同時に軍略上の要路でもあり、鎌倉時代より近江源氏の佐々木氏が当地に城館を構えた朽木家15代元網のとき関ヶ原合戦において徳川家康の東軍に味方し、さらに大阪の陣の戦功を加えて、幕府より9595石の知行地を与えられ、交代寄合に列せられた。

 交代寄合というのは老中支配下にあって参勤交代の義務を負うとともに徳川家の譜代大名格の待遇を受けるもので、その領地内に設けた館舎を特に「陣屋」と呼んだ。

 朽木陣屋も当寺は方2町(220m四方)の敷地内に、御殿・侍所・剣術道場・馬場の他に多数の侍部屋や倉庫などが軒をつらねていたが、明治維新とともに、全ての建物がとりこわされ、その後もたび重なる土地の改変にあって遺構の大半を消失してしまった。いまでは、堀・土居・石垣の一部と、1ヶ所の井戸がわずかに残るばかりである。