近江 岩神館(興聖寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①興聖寺本堂②土塁③土塁④旧秀隣寺庭園⑤石垣​​​​​​​⑥測量図

 

訪問日:2019年7月

 

所在地:滋賀県高島市

 

 朽木氏は近江源氏佐々木信綱の次男・高島高信を祖とする高島氏の庶流で、鎌倉時代に朽木荘の地頭となり、江戸時代まで旗本または大名として存続した。

 

 朽木稙綱は近江朽木谷の国人・朽木材秀の子。永正2年(1505)「竹松」という幼名で室町幕府からの奉書を受け取っている。

 

 永正4年(1507)管領・細川政元が暗殺されると、翌年に11代将軍・足利義澄は朽木谷に避難、この頃竹松は幕府奉公衆として御所御門役を務めている。

 

 永正13年(1516)までに元服して復帰した10代将軍・足利義稙から一字を賜り稙広と名乗り、その後大永2年(1522)以降に稙綱と改名した。

 

 大永5年(1525)近江守護・六角定頼に従い、先鋒として江北に台頭してきた浅井亮政と戦い、亮政を美濃に敗走させた。

 

 享禄元年(1528)細川晴元に敗れた12代将軍・足利義晴が稙綱を頼って朽木谷に落ち延び、稙綱は岩神館内に屋形を建て、細川高国の協力で庭園を拵えてこれを迎えた。

 

 享禄4年(1531)高国が自害すると義晴は晴元と和睦し京都に戻る。天文5年(1536)義晴が将軍職を生まれたばかりの嫡子・菊幢丸に譲ろうとして、これに代わって公事を行う「年寄衆」に稙綱ら8名を指名した。

 

 義晴は引退を撤回したが、この8名は後に「内談衆」と呼ばれ、義晴政権を支える側近集団(他に大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆)であった。

 

 天文15年(1546)義晴は11歳になった菊幢丸を元服(足利義藤)させて将軍職を譲る。義藤のもとでも稙綱は将軍の御供衆に任ぜられ、三好長慶らと戦った。

 

 天文19年(1550)嫡男・朽木晴綱が本家の高島越中守と戦って討死し、孫の元網がわずか2歳で家督を継いでいるが、稙綱はこの時も義藤とともにあったと思われる。

 

 天文22年(1553)長慶に敗れた義藤は父と同様に朽木谷に逃れ、永禄元年(1558)までの5年間をここで過ごし、この間の天文23年(1554)名を義輝に改めている。

 

これに稙綱が伴っていたかどうかはわからない。『朽木文書』では天文18年(1549)以降登場せず、その頃亡くなった可能性もあるが、永禄年間まで生存していたという説もある。

 

 

以下、現地案内板より

 

朽木氏岩神館遺跡(滋賀県高島市朽木岩瀬)

 

 朽木氏岩神館遺跡は、高島市朽木岩瀬の興聖寺境内一帯(東西120m×南北160m)に位置し、同じ境内には名勝旧秀隣寺庭園(通称足利庭園)が存在します。

 庭園と館は、安曇川によって形成された河岸段丘の縁に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見下ろし、その背後の虻谷ヶ峰を遠くに望むことができる立地にあります。東側の眼下には若狭街道が通り、西側の背後には岩神館の遺構である土塁や堀が現在でも残っています。

 岩神館が造られた詳しい年代は不明ですが、享禄元年(1528年)に、室町幕府12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、朽木稙綱を頼って朽木の地に身を寄せたとされています。朽木稙綱は、将軍のために「岩神館」を造り、この館内に作庭した庭園が旧秀隣寺庭園として現在に至ります。

 岩神館の遺構は、境内南半分を占める墓地の西側にコの字形に残る土塁と空堀が残っています。土塁は南北56mが完存し、両端は東方に向かって直角に折れます。北端は11.5mが、南端では29mが残存します。空堀は、土塁の外側に薬研堀状に巡っており、西側部分では堀底より土塁頂部まで2.5mを測ります。南側の土塁先端よりさらに9mの前方まで、堀の痕跡が残ることから、往時は土塁と共にさらに東方の崖端まで続き、この館の弱点である南方部分の防備を固めていたと考えられます。

 庭園は、安曇川の清流とその背後の虻谷ヶ峰が望める池泉鑑賞式庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は、鯉魚石とされる水分石を流れ落ち、池泉に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島の2つの中島を浮かべ、最もくびれた中央付近には自然石による石橋を架けます。随所に豪快な石組を配し、非常に多くの景観と作庭意匠を用いる庭園です。この庭園は、室町幕府管領の細川高国が作庭したとされています。高国が作庭したとされる三重県津市美杉所在「名勝北畠氏庭園」とも類似することが指摘され、中世末期の武家庭園として鑑賞できる数少ない貴重な名勝庭園です。

 

平成25年3月 高島市教育委員会