讃岐 高松城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②天守穴蔵

イメージ 3③月見櫓

イメージ 4④水門

イメージ 5⑤艮櫓(太鼓櫓台)

イメージ 6⑥艮櫓台

 

訪問日:2019年1月

 

所在地:香川県高松市

 

 弥千代は弘化3年(1846)井伊直弼の次女として生まれた。弥千代誕生の10日後、直弼は異母兄・井伊直亮の養子となり、嘉永3年(1850)直亮の死去により彦根藩15代藩主となった。

 

 彦根井伊家と高松松平家はともに江戸城溜詰で親交が深く、直亮の正室は高松藩8代藩主の松平頼儀の娘・粲であったが子供はできなかった。

 

 また、頼儀の養嗣子で高松藩9代藩主・松平頼恕は宗家にあたる水戸藩主・徳川斉昭の異母兄であったが、天保13年(1842)45歳で死去し、頼儀の実子である松平頼胤が10代藩主となった。

 

 頼胤は安政4年(1857)に始まる将軍継嗣問題や日米修好通商条約の勅許問題で直弼側につき、その最中の同年に頼恕の実子で養嗣子の頼聰と弥千代の縁談が整う。

 

 斉昭の甥であり、一橋慶喜の従兄弟である頼聰(25歳)と井伊直弼の娘である弥千代(13歳)の婚儀は安政5年(1858)に執り行われ、その2日後直弼は大老に就任し、安政の大獄が始まる。

 

 しかし、安政7年(1860)桜田門外の変で直弼は暗殺され、翌文久元年(1861)頼胤は隠居して頼聰が高松藩11代藩主となった。

 

 文久2年(1862)一橋慶喜らが政界に復帰すると、彦根藩は30万石から10万石を減封され、高松藩前藩主・松平頼胤も永蟄居の処分を受けた。翌文久3年(1863)18歳の弥千代は離縁されて井伊家に返される。

 

 明治元年(1868)の戊辰戦争では彦根は率先して新政府軍につき、高松藩は旧幕府軍について朝敵となり、藩内では抗戦も辞さない構えであったが、頼聰の異母兄で勤皇派の松平頼該が奔走して恭順し、高松城は無血開城された。

 

 明治5年(1872)有栖川宮熾仁親王の仲介で弥千代は9年ぶりに頼胤と復縁、松平千代子と改名して、明治7年(1874)に生まれた頼寿をはじめ、5男2女を出産した。

 

 頼寿は、慶喜の弟で旧水戸藩主の徳川昭武の娘・昭子と結婚、井伊直弼と徳川斉昭の実孫同士の夫婦となった。明治36年(1903)伯爵・頼聰は70歳で死去、千代子はその後、昭和2年(1927)まで生きて82歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 高松城跡 

 

 高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588)に築城が開始されました。その縄張り(設計)は藤堂高虎、黒田孝高、細川忠興など諸説があります。生駒氏は4代54年続きますが、寛永17年(1640)に出羽国矢島(今の秋田県由利本荘市)1万石に移されます。その後、寛永19年(1642)に松平頼重(水戸光圀の兄)に東讃12万石を与えられ、高松城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までの11代228年の間、松平氏の居城として威容を誇ってきました。頼重は、寛永21年(1644)に高松城の改修を開始し、寛文10年(1670)に天守改築、寛文11年(1671)からは東ノ丸・北ノ丸の新造を行い、2代頼常が完成させました。これに伴い、大手を南から南東へ移し、藩主の住居と政庁を一体化した御殿を三ノ丸に作ることも行われました。
 江戸時代には、内堀、中堀、外堀の三重の堀を有し、約66万㎡(約20万坪)という広さでした。明治初期に外堀が埋め立てられ、さらに徐々に中堀の一部が埋立てられ市街化が進み、現在約8万㎡のみが城跡として残っています。昭和29年(1954)に高松市の所有になり、昭和30年(1955)に国の史跡に指定されています。

 

贈 公益財団法人松平公益会