讃岐 屋島神社(讃岐東照宮) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①社殿

イメージ 2②神門と屋島

イメージ 3③神門と屋島

イメージ 4④神門と屋島

イメージ 5⑤境内

イメージ 6⑥境内

 

訪問日:2019年1月

 

所在地:香川県高松市

 

 松平頼重は元和8年(1622)水戸徳川氏初代・徳川頼房の長男として生まれた。2代・徳川光圀(3男)は6歳年少の同母弟である。

 

 頼重を妊娠した母・久は頼房から堕胎を命じられて頼房の重臣・三木之次夫妻に預けられ、江戸の三木邸で秘密裏に出産し、頼重に隠したまま江戸で育てられた。

 

 寛永5年(1628)久は光圀を出産するが、この時も頼房は堕胎を命じており、三木夫妻は露見を恐れて頼重を京都の大納言・滋野井季吉に預け、水戸の三木邸で光圀を出産させた。

 

 当時男子がいなかった兄の義直・頼宣を憚ったともされるが、この間、頼房には他の側室から次男・亀丸(寛永2・1625年生)らが生まれているがそのような形跡はなく、生涯正室を持たなかった頼房がなぜこのような命を出したかは不明。

 

 その後、光圀は寛永9年(1632)水戸城に入り、その非凡さゆえ翌寛永10年(1633)世子となることが決定した。一方、頼重は寛永9年に水戸藩邸に招かれるも、寛永14年(1637)まで頼房にお目見えできなかった。

 

 寛永15年(1638)光圀に次ぐ次男の扱いではあるが将軍・徳川家光にお目見え、寛永16年(1639)常陸下館に5万石を与えられ、寛永19年(1642)には生駒騒動により天領となっていた讃岐高松12万石に転封となった。

 

 慶安元年(1648)長男・松千代が、明暦2年(1656)次男・采女が誕生、一方光圀にも承応元年(1652)長男・鶴千代が誕生するが、翌年、光圀は頼常を高松に送り、高松城で養育させる。

 

 寛文元年(1661)頼房が死去、光圀が水戸藩主となると、寛文3年(1663)兄の子の松千代(綱方)を養子とし、寛文4年(1664)には鶴千代(頼常)が頼重の養子となった。

 

 寛文5年(1665)には采女(綱條)が水戸に引き取られ、寛文10年(1670)綱方が早世すると、寛文11年(1671)綱條が光圀の養子となった。

 

 延宝元年(1673)頼重は家督を頼重に譲って隠居、元禄8年(1695)に没した、74歳。光圀は元禄3年(1690)綱條に家督を譲り隠居、元禄13年暮(1701年1月)死去した。兄とほぼ同じ73歳だった(満年齢は同じ)。

 

 

以下、現地案内板より

 

讃岐東照宮 屋島神社

 

由緒

 

 当神社は慶安4年(1651年)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。
 以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804年)当時の高松藩主第8代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化12年(1815年)に完成した。その後、明治4年には冠嶽神社と改め、さらに明治7年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治15年に藩祖松平頼重公を合祀する。昭和48年2月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍 下り龍の彫刻)は無事であった。社殿は翌年11月に再建され現在に至っている。

 

御祭神 東照大神(徳川家康公)
     頼重大神(松平頼重公)
例祭日 4月17日