大和 東大寺正倉院 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①正倉院

イメージ 2②正倉院

 
訪問日:2009年11月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 正倉院は元々東大寺の正倉であったが、明治8年(1875)その収蔵品の重要性に鑑み、内務省の管理下に置かれ、現在は宮内庁の正倉院事務所が管理している。

 

 その宝物の1つで天下第一の名香と謳われる「蘭奢待」はこれまで足利義満、足利義教、足利義政、織田信長、明治天皇ら時の権力者により切り取られている。

 

 その雅名の意味については、蘭奢待それぞれの文字に東・大・寺が含まれているが、「奢れる者も待つ」なのか、皮肉を込めてつけられているようだ。

 

 これまで切り取られた跡が38箇所あり、50回以上は切り取られたと推定されているが、切り取った記録に残る者の中に、美濃の守護大名・土岐頼武がいる。

 

 頼武は生没年も不明、土岐政房の長男で、次弟に文亀2年(1502)生まれの土岐頼芸がおり、政房は頼芸への家督継承を望んだ。

 

 これに守護代・斎藤利良は反発して頼武を推し、小守護代の長井長弘は頼芸を推して、永正14年(1517)両派の合戦となり、頼武派が勝利した。

 

 しかし永正15年(1518)再び合戦となり、頼武派は敗れて利良と姻戚関係にある越前朝倉氏のもとに逃れ、この間に朝倉貞景の3女(朝倉孝景の姉妹)を娶っている。

 

 永正16年(1519)政房が没すると孝景は弟・朝倉景高を美濃に出陣させ、頼武はこれに守られて美濃に戻り、頼芸派を破って守護職に就いた。

 

 しかし、大永5年(1525)長井長弘が頼芸を奉じて再挙、守護所・福光館を占拠された。さらに近江の浅井亮政が長弘を支援し、頼武は朝倉氏に救援を求めた。

 

 朝倉景職が稲葉山城まで出兵するなど、大永7年(1527)までに鎮圧するが、その後巻き返されて享禄3年(1530)頼武は再び越前に逃れる。

 

 享禄4年(1531)美濃に戻り大桑城を本拠に頼芸と対峙する。天文2年(1535)頼芸が政房の十七回忌法要を行なって自らの正当性を主張する。

 

 これに対し、頼武は上洛して修理大夫に任官し、さらにこの時に朝廷に申請して正倉院の蘭奢待切り取りの許可を得ている。

 

 しかしまもなく頼武は病に伏せて49歳で死去、頼芸との対決は嫡子・頼純に引き継がれた。

 

 一方、頼芸派は長井長弘やこれに取り立てられた長井新左衛門尉が亡くなり、新左衛門尉の子・長井規秀(斎藤道三)が台頭してくる。