大和 新庄城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

イメージ 2②屋敷山古墳

イメージ 3③ヒョータン池

イメージ 4④遠景

イメージ 5⑤絵図

 

訪問日:2018年5月

 

所在地:奈良県葛城市

 

 桑山一晴は天正3年(1575、天正元年とも)桑山一重の長男として生まれた。天正6年(1578)には弟の一直が生まれている。

 

 祖父・桑山重晴は丹羽長秀の与力であったが、天正2年(1574)羽柴秀吉の要請により羽柴氏に移り、天正8年(1580)1万石の但馬竹田城主となっている。

 

 天正10年(1582)父・一重が竹田城で26歳で早世、天正13年(1585)重晴は羽柴秀長の家老となり、和歌山城代として3万石(のち4万石)を領した。

 

 一晴は文禄・慶長の役において叔父の桑山貞晴(宗仙・片桐石州の茶の師)とともに出陣して水軍を指揮し、負傷している。

 

 慶長元年(1596)重晴が出家し、一晴が家督と和歌山2万石を、叔父・元晴が大和御所1万石を、残り1万石は引き続き重晴(桑山治部卿法印)が領した。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは一族で東西に分裂し、一晴は初め領国で西軍に与したが、本戦の後に祖父とともに西軍の堀内氏善の新宮城を攻略して所領を安堵された。

 

 慶長6年(1601)大和葛下郡布施に同石高で移封され、陣屋と陣屋町を構築して新城村(のち新庄)と名付けた(この時祖父に4千石を分与)。

 

 慶長9年(1604)一晴は祖父に先立ち伏見で死去、30歳あるいは32歳。男子がなく家督は弟の一直が継いだ。

 

 天和2年(1682)4代目・桑山一尹(一直の孫)が寛永寺における亡き将軍・徳川家綱の法会において勅使に対して不敬があったとして改易された。