相模 鶴岡八幡宮 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本宮

イメージ 2②本宮

イメージ 3③舞殿

イメージ 4④参道

イメージ 5⑤源平池

イメージ 6⑥二の鳥居・段葛

 

訪問日:2017年11月

 

所在地:神奈川県鎌倉市

 

 源実朝は建久3年(1192)源頼朝の4男として生まれた。同母兄・源頼家は10歳年長で、異母長兄・千鶴丸はすでに殺害され、6歳年長の異母兄(貞暁)がいた。

 

 建久10年(1199)頼朝が死去し、頼家が2代将軍に就任する。しかし、建仁3年(1203)頼家は伊豆に追放となり、12歳の実朝が3代将軍となる。

 

 翌元久元年(1204)頼家は北条氏の手により暗殺される。同年、周囲が勧める御家人・足利義兼の娘を嫌い、京都から坊門信清の娘・信子を正室に迎えた。

 

 元久2年(1205)外祖父・北条時政とその後妻・牧の方が共謀し、娘婿の平賀朝雅と対立した有力御家人・畠山重忠一族を滅ぼした。

 

 さらに時政夫妻は実朝を廃して朝雅を将軍に擁立しようとするが、実朝の母・北条政子と叔父・北条義時がこれを阻止し、時政らを鎌倉から追放し、朝雅は京都で殺害された。

 

 承元2年(1208)実朝は疱瘡を患い、その痕を恥じてこれまで頻繁に行っていた鶴岡八幡宮の参拝を3年間中断したという。

 

 建暦3年(1213)には御家人の泉親衡による頼家の遺児・千寿丸を擁して義時打倒の企てが露見し、その処分を巡り義時が和田義盛一族を挑発して滅亡に追い込んだ。

 

 建保4年(1216)実朝は渡宋を思い立ち、義時らの反対を押し切り、唐船を建造させ、建保5年(1217)完成した船を由比ヶ浜から海に曳かせたが船は浮かばず断念した。

 

 同年、実朝の猶子で、園城寺で修行をしていた頼家の遺児・公暁が政子の命で鶴岡八幡宮の別当となる。

 

 建保6年(1218)12月、武士としては初めての右大臣昇進となり、これを祝う鶴岡八幡宮拝賀が建保7年(1219)正月に執り行われることとなった。

 

 拝賀を終え退出するところを公暁に襲われて実朝は死去した。28歳。公暁もその場で討たれた。これにより源氏の嫡流は断絶した。

 

 実朝の歌は勅撰和歌集に92首が入選し、小倉百人一首にも「鎌倉右大臣」として

世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも

 の歌が伝わる。

 

 公暁の師でもある実朝の異母兄・貞暁は鎌倉法印と呼ばれ、政子も帰依して源氏一族の菩提を弔った。寛喜3年(1231)その死去により頼朝の男系男子の子孫は絶えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

鶴岡八幡宮

 

御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平6年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承4年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。
建久2年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領の修造を行い篤く尊崇した。

 

摂社 若宮     例祭4月3日
末社 白旗神社   例祭5月28日
   式内社    例祭4月21日
   丸山稲荷社  例祭4月9日
   祖霊社    例祭春分・秋分の日
   旗上社    例祭4月初巳の日
   由比若宮   例祭4月2日
   今宮     例祭6月7日

 

主な年中行事

 

▶歳旦祭     1月1日
▶大祓      6月・12月晦日
 古神札焼納祭  半年間の罪穢を祓清め、また古い
         神札やお守りを焼納する
▶ぼんぼり祭   8月立秋前日~8月9日
         諸名士揮毫によるぼんぼりの掲揚
▶例大祭     9月14日~15日
         旧暦8月15日の放生会にちなむ
▶流鏑馬神事   9月16日
         頼朝公により始行された勇壮神事
▶御鎮座記念祭  12月16日
         建久2年当宮鎮座日(旧暦11月21日)、
         御神楽を奉奏する。