①巨福呂坂
②巨福呂坂
③巨福呂坂
訪問日:2017年11月
所在地:神奈川県鎌倉市
鎌倉幕府最後の(16代)執権・北条(赤橋)守時は永仁3年(1295)北条久時の子として生まれる。応長元年(1311)17歳で評定衆に任ぜられる。
正中3年(1326)得宗家の14代執権・北条高時が病により24歳で出家すると、高時の2歳の長男・邦時(母・常葉前)を後継者とし、北条(金沢)貞顕が中継ぎとして15代執権となった。
しかし、高時の正室の父・安達時顕らに推されていた高時の弟・北条泰家がこれに怒り出家してしまうと、貞顕は報復を恐れて執権就任10日余りで辞任し、出家した。
執権になり手がいない状況の中で守時は16代執権に就任する。しかし実権は得宗家の高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らが引き続き握っていた
正慶2年(元弘3・1333)妹婿で御家人筆頭の足利高氏(尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛き、同母妹の登子と甥・千寿王丸(足利義詮)母子も鎌倉を脱出する。守時は高時に謹慎を命じられる。
そして新田義貞らの大軍が鎌倉に迫ると、立場を払拭したい守時は先鋒として巨福呂坂に拠りこれを迎え撃った。しかし衆寡敵せず嫡男・益時とともに自害した。