和泉 慈眼山 孝恩寺(木積観音) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①観音堂(釘無堂)

イメージ 2②国宝観音堂

イメージ 3③国宝観音堂

イメージ 4④地車

 

訪問日:2017年10月

 

所在地:大阪府貝塚市

 

 国宝・観音堂は元は行基四十九院の1つで、 七堂伽藍を備えた観音寺(木積観音)の一堂であったが、明治22年(1889)廃寺となり、残された観音堂は大正3年(1914)孝恩寺に吸収された。

 

 山名時氏は貞治2年(正平18・1363)2代将軍・足利義詮に帰服して守護国を安堵され、山名氏を山陰随一の勢力にして応安4年(建徳2・1371)に亡くなった。

 

 時氏の4男・氏清は父の遺領から丹波を相続、山名氏惣領は長兄・師義が継ぐが5年後に死去、弟の時義がその跡を継いだ。

 

 永和4年(天授4・1378)紀伊で挙兵した南朝方の橋本正督討伐を命じられ、美作守護の次兄・義理とともにこれを果して義理は紀伊、氏清は和泉守護を兼ねることとなった。

 

 康応元年(元中6・1389)時義が死去し、その子・時煕が惣領となった。時煕の妻は師義の娘とも氏清の娘ともいわれるが、氏清やその婿で師義の4男・満幸の不満は大きかった。

 

 山名氏の強大化を懸念した3代将軍・足利義満は氏清と満幸に時煕とその義兄で満幸の次兄・氏之討伐令を下し、時煕・氏之は没落し、功により氏清は時煕の但馬、満幸は氏之の伯耆を与えられた。

 

 しかしその後義満は時煕・氏之を赦免し、逆に満幸の罪を問うた。満幸は氏清を説得し、明徳2年(元中8・1391)ともに挙兵して京都に攻め入るが、大内義弘や赤松義則らの幕府軍に敗れ、氏清は討死した(明徳の乱)。

 

 和泉は大内義弘に与えられ、その混乱の中で木積観音の伽藍は観音堂を残して大部分が焼失した。その義弘も義満に睨まれ、応永6年12月(1400年1月)叛旗を翻すが敗死した(応永の乱)。

 

 

以下、現地案内板より

 

国宝 孝恩寺観音堂

 

指定年月日 明治36年4月15日
管理者   孝恩寺

 

 神亀3年(726年)、聖武天皇の勅願を受け、僧行基によって建立されたとされる。畿内四十九院の一つに数えられる寺院である。現存の御堂は、鎌倉時代後期に再建されたもので、大阪府下で最古の部類の木造建築物として、明治36年に国宝に指定されている。建立時、釘を使用していなかったことから、別名釘無堂と呼ばれている。また、当寺には平安時代中期の本尊阿弥陀如来をはじめ、地方色豊かな19体の仏像群が重要文化財に指定され安置されている。

 

平成3年3月  貝塚市教育委員会

 

 

国宝 釘無堂縁起

 

人皇45代聖武天皇が僧行基に命じて畿内に四十九院を造営せられるに当り地を此處木積の杣山の良材を採って其の一院を建立せられた。時に神亀3年春3月、当時は七堂伽藍が整然と聳えていた事であろう然るに足利時代に至り山名、大内二氏の乱に合い堂宇の大半は鳥有に帰した。幸に仏像は程近い池中に投ぜられ辛じて災禍を免れ後年泥中より引揚げられ難を免れた釘無堂内に安置せられたと伝えている其の後天正13年豊臣秀吉が紀州根来寺を攻めた時にも戦火に遭い残余の僧坊等悉く焼失したが幸にして釘無堂のみ僅かに災厄をまぬがれて現在に及んでいる然し乍ら現存の堂は創建当時のものでなく鎌倉時代の代表的建築である。思ふに其の頃に破損はげしくて改築したものであろう。
現存の十九躯の仏像及び一面の板画は悉く弘仁佛(又は貞観佛とも言う)で日本美術史上画期的代表作である又特に奈良京都等に於ける仏像には見られない特長をもつものとして斯界の識者の推賞惜からざる所である。いづれも一本造で重要文化財(旧国宝)に指定せられている。

 

慈眼山 孝恩寺