奈良町都市景観形成地区(ならまち) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①藤岡家住宅
イメージ 2②ならまち格子の家
イメージ 3③上街道
イメージ 4④御霊神社
イメージ 5⑤金躰寺本堂
イメージ 6⑥南都鏡神社
 
 不調のため部品交換(センサーCOMP.シリンダー)となっていた愛車・ビートの修理が終わり、試運転がてら奈良を訪れることにした。
 
 奈良町は和銅3年(710)奈良遷都に伴い、多くの社寺が置かれたことに始まり、延暦3年(784)長岡京遷都後も都市機能は維持された。
 
 奈良町の中核をなす元興寺は宝徳3年(1451)土一揆により金堂など主要堂宇を失い、文明4年(1472)再建された金堂が大風で倒壊すると金堂は再建されず、焼け跡では筆・炭・蚊帳・晒・布団・刀・酒・醤油などといった産業が発展し、江戸時代の17世紀末には人口3万5千人の商工業都市として栄えていた。
 
 藤岡家住宅(写真①)は江戸時代後期(18世紀後半)の町屋で、重要文化財に指定されている。昭和30年代まで商売をしていた。
 
 ならまち格子の家(写真②)は奈良町の伝統的な町屋(主屋・中庭・離れ・蔵)を再現したもので、往時の暮らしを垣間見ることができる。写真は箱階段。ここで散策マップを入手して上街道(写真③)を北上して元興寺に向かう。休日としてはそれほど人通りが多いという感じでもない。
 
 その途上の御霊神社(写真④)は、元興寺南大門があったと推定される場所で、井上皇后・他戸親王・事代主命・早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人・伊予親王・橘逸勢といった非業の死を遂げた人々を祀っている。元は井上郷(奈良市井上町)にあったが、これも土一揆で焼失し、現在地に遷座されたと伝えられている。
 
 元興寺の拝観を終えて十輪院へ、ここの石仏龕は元々雨曝しでこれを覆う覆堂ができ、さらに鎌倉時代にこれを拝むための礼堂が建立され、現在は国宝となっている。
 
 十輪院の近くにある金躰寺は元興寺の道昭法師の開基と伝えられ、天正10年(1582)奥州岩城出身の良誉清範上人が入り、法相宗から浄土宗に改宗した。本堂(写真⑤)は寛永14年(1637)の再興。
 
 新薬師寺がある高畑町までは1km以上あるが景観地区に含まれているようだ。しかし、ちょっと遠いので車で移動する。
 
 南都鏡神社(写真⑥)は新薬師寺の鎮守として境内南側に創建された。藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたと伝えられている。現在の本殿は延享3年(1746)春日大社の第三殿を譲渡されたものである。
 
 帰り道はフルブレーキを強いられるインシデントにも見舞われたが、ビートも無事に生駒トンネルを抜け自宅に帰着することができた。