大和 日輪山 新薬師寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝本堂

イメージ 2②国宝本堂

イメージ 3③地蔵堂

イメージ 4④鐘楼

イメージ 5⑤南門

イメージ 6⑥東門

 

訪問日:2017年9月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 日本では乙巳の変が起きた貞観18年(645)玄奘三蔵が657部の経典を携え、16年にわたる西域巡行を終えて唐・長安に帰国した。

 

 玄奘は皇帝・太宗の国政参加要請を断り、帰国直後から経典の翻訳事業を開始した。その中の1つが永徽元年(650)に完成した『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)である。

 

 薬師瑠璃光如来(薬師如来)は東方浄瑠璃世界の教主で、菩薩の時に光明普照・随意成辨・施無盡物・安立大乗・具戒清浄・諸根具足・除病安楽・轉女得佛・安立正見・除難解脱・飽食安楽・美衣満足の12の大願を立てて如来となったことから、無明の病を治す法薬を与える医薬の仏として、来世の平穏を司る阿弥陀如来に対し、現世の安泰を司る仏として扱われる。

 

 行像は右手を施無畏印などに結び、左手に薬壷を持つことが多く、日光・月光菩薩を脇侍として薬師三尊像としたり、新薬師寺のように眷属として十二神将をともに安置されることが多い。

 

 玄奘は持ち帰った経典全体の約3分の1、76部1347巻(漢字にして約1100万字)を翻訳、麟徳元年(664)最も重要とされる『大般若経』16部600巻の翻訳を完成させた100日後に示寂したという。

 

 

以下、パンフレットより

 

 新薬師寺は、天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって創建されました。
 聖武天皇は、天平15年(743)、動物植物ことごとく栄える世の中をめざし、皆で力を合わせて盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが、天平17年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城宮に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で、薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七躯を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。
 悔過とは、過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは、悪いことが起こるのは、貪(欲ばり)、瞋(いかり)、痴(愚かさ)の三毒によって生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、福を招くことができるという考えです。平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日山、高円山の麓に、新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営されました。天平勝宝3年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、天平勝宝4年(752)、東大寺で大仏開眼供養会が営まれました。
 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代、応和2年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二躯ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約60メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在したことが史料からわかります。鎌倉時代までに、東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今にいたっています。現在でも、毎年1月8日と4月8日には薬師悔過が行われます。

 

 

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