大和 雨宝山 十輪院 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝本堂

イメージ 2②国宝本堂

イメージ 3③南門

 

訪問日:2017年9月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 朝野宿禰魚養は吉備真備の庶長子との伝説もあるが信憑性は低い。延暦6年(787)外従五位下に昇叙、播磨大掾・典薬頭を務め、延暦10年(791)忍海原連のち朝野宿禰に改姓した。

 

 能書家で弘法大師の書の師匠といわれ、薬師寺に伝わる大般若経は魚養が書写したとの伝承があり、「魚養経」と称されて藤田美術館・奈良国立博物館に収蔵されて、一部は国宝に指定されている。

 

 この「魚養経」600巻は元々十輪院の宝蔵に収められていたが、明治の廃仏毀釈により衰えた十輪院が明治15年(1882)宝蔵を手放し、「魚養経」は薬師寺に移ったのだというが、真偽のほどは不明。

 

 鎌倉時代に建てられた校倉造の宝蔵は東京に渡り、東京国立博物館に移築されて「旧十輪院宝蔵」として重要文化財に指定されている。

 

 

以下、パンフレットより

 

十輪院は元興寺旧境内の南東に位置し、静かな奈良町のなかにあります。
寺伝によりますと、当山は元正天皇(715–724)の勅願寺で、元興寺の一子院と言われます。また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養の開基とも伝えられています。
沿革の詳細は明らかではありませんが、鎌倉時代、無住法師の『沙石集』(1283)では本尊の石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げています。
室町時代の末期までは寺領三百石、境内は約1万坪の広さがあったようですが、兵乱等により、多くの寺宝が失われました。
しかし江戸時代の初期には徳川家の庇護を受け、寺領五十石を賜り、諸堂の修理がなされました。
明治時代の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けましたが、現在、当山の初期の様子を伝えるものとして、本尊の石仏龕、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、それに校倉造の経蔵(国所有)などが残っています。
近年、昭和28年本堂の解体修理から、平成8年防災施設の完成により、諸堂宇が整備され、境内は寺観を整えることができました。

 

本堂(国宝 鎌倉時代前期)
 間口11.20m 奥行8.47m 高さ5.68m 寄棟造瓦葺
後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されました。正面に一間通りの広縁を設け、垂木を用いず、厚板と特異な組物で軒を支えています。こじんまりした内部は一本の柱を外陣・内陣に使い分け、低い天井は簡素な棹縁天井となっています。蔀戸が用いられ、軒及び床を低くおさえ、屋根の反りを少なくするなど、当時の住宅をしのばせる要素が随所にみられます。蟇股や木鼻、正面の柱などは創建当時のものです。

 

石仏龕(重要文化財・平安時代中期~鎌倉時代前期)
 間口12.68m 奥行2.45m 高さ2.42m 花崗岩製
寺伝では、弘仁年間(810-823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立させた、とあります。龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮彫りで表しています。そのほか、仁王、聖観音、不動明王、十王、四天王、五輪塔、あるいは観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界を具現しています。龕前には死者の身骨や棺を安置するための引導石が置かれます。
また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰も窺い知ることができます。
引導石の左右には南都仏教に伝統的な「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の経幢が立てられています。
この石仏龕は当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常にめずらしい構成を示しています。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることも注目されます。