下総 生実城(北小弓城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大手口跡

イメージ 2②堀跡

イメージ 3③生実神社

イメージ 4④生実神社

イメージ 5⑤北生実村絵図

 

訪問日:2017年5月

 

所在地:千葉市中央区

 

 下総原氏は千葉氏の庶流で、室町時代中期の原胤房は円城寺尚任とともに千葉氏の執権であったが、享徳3年末(1455年1月)鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことに端を発する享徳の乱で、千葉氏18代・千葉胤宣と尚任は上杉氏に胤房は成氏に与したため両者の対立は決定的なものとなった。

 

 享徳4年(1455)胤房は千葉氏の本拠・亥鼻城を攻め、さらに千葉氏14代・満胤の次男で僧籍にあった馬加康胤を味方につけて胤宣・尚任らを討取り、さらに胤宣の父で16代当主の胤直・胤賢兄弟も討取って千葉宗家を滅ぼし、康胤を19代当主に据えた。

 

 将軍・足利義政は千葉氏一族で幕府奉公衆の美濃篠脇城主・東常縁を派遣し、胤房・康胤は胤賢の遺児の千葉実胤・自胤兄弟を擁立した常縁に敗れて胤房は小弓に逃れ、康胤は翌康正2年(1456)討取られた。

 

 その後、千葉氏は康胤の系統の下総千葉氏と胤賢の系統の武蔵千葉氏に分かれて争った。胤房は文明3年(1471)上杉氏に小弓城を攻められ討死したと思われる。
 

 

以下、現地案内板より
 
生実神社  千葉市中央区生実町1550番地

 

 北小弓城内の一画にあるこの生実神社は、崇道天皇や藤原広嗣など朝廷により冤罪をかけられた人々の霊を祭神としており、もとは御霊神社と呼ばれていました。創建は詳かではありませんが、天文年間に小弓城主であった原氏が祀ったものと考えられています。後年、城内に陣屋を構えた森川氏は当社を崇敬し、4代俊胤の宝永4年(1707)に武運長久の祈願を行い、同7年に社殿を造営しました。
 明治4年(1871)には北生実305戸の鎮守となり、更に同43年村内の諸社を境内に移して合祀し、生実神社と社名を改めました。祭礼は10月10日ですが、宵宮(前日の夜)に湯立神事が行われています。

 

平成11年3月 千葉市教育委員会