①堀跡
②陣屋絵図
訪問日:2017年5月
所在地:千葉市中央区
生実藩初代藩主・森川重俊は徳川家康の家臣・森川氏俊の3男として天正12年(1584)に生まれた。慶長2年(1597)14歳で5歳年長の徳川秀忠の近習となり、その寵愛を受けた。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、信濃上田城の戦いにも加わった。慶長14年(1609)には秀忠より下野に3千石を賜った。
しかし、正室が大久保忠隣の養女(姪)であったことから、慶長19年(1614)忠隣の改易に連座して、上野高崎藩・酒井家次預かりとなった。
慶長20年(1615)大坂夏の陣に家次に従って武功を挙げて秀忠の近習として復帰、寛永4年(1627)下総・上総・相模に1万石を与えられ生実藩を立藩した。
寛永8年(1631)には老中となるが、翌寛永9年(1632)大御所・秀忠が亡くなると、その翌日に殉死した。家督は長男・重政が継ぎ、森川氏は幕末まで転封されることなく、12代・俊方の時、明治維新を迎えた。
以下、現地案内板より
生実城と生実陣屋
今から500年ほど昔の戦国時代後半、千葉市南部は房総の里見・武田氏と、千葉氏・小田原の北条氏が覇権を争う舞台となりました。
生実町の台地上に広がる生実城は、1538(天文8)年の築城から1590(天正18)年の廃城までの約50年間に幾多の攻防戦が展開されています。
江戸時代になると、城の一部が陣屋に改められ、1627(寛永4)年から幕末までの約240年間、幕府の要職についた森川家の城下町として、また房総往還を臨む交通の要衝として生実町は栄えました。
生実城の堀跡は、戦国時代後半から江戸時代にかけての貴重な資料や情報を秘めた第一級の遺構です。
1995(平成7)年に最も良好に堀跡の形がのこる生実神社西側の土地360坪が、宇野澤澤氏から生実神社に寄贈されました。生実町民挙げて謝意を表し、その功績を永く讃え、生実城の詳細を広く知っていただくため、説明板を設置いたします。
生実町の台地上に広がる生実城は、1538(天文8)年の築城から1590(天正18)年の廃城までの約50年間に幾多の攻防戦が展開されています。
江戸時代になると、城の一部が陣屋に改められ、1627(寛永4)年から幕末までの約240年間、幕府の要職についた森川家の城下町として、また房総往還を臨む交通の要衝として生実町は栄えました。
生実城の堀跡は、戦国時代後半から江戸時代にかけての貴重な資料や情報を秘めた第一級の遺構です。
1995(平成7)年に最も良好に堀跡の形がのこる生実神社西側の土地360坪が、宇野澤澤氏から生実神社に寄贈されました。生実町民挙げて謝意を表し、その功績を永く讃え、生実城の詳細を広く知っていただくため、説明板を設置いたします。
1996(平成8)年10月吉日 生実神社(千葉市教育委員会・村田六郎太指導)