山城 補陀落山 海住山寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝五重塔

イメージ 2②国宝五重塔

イメージ 3③国宝五重塔

イメージ 4④文殊堂

イメージ 5⑤本堂

イメージ 6⑥鐘楼と門

 
訪問日:2017年1月

 

所在地:京都府木津川市

 

 解脱上人貞慶は久寿2年(1155)に生まれた。翌保元元年(1156)の保元の乱の勝利で祖父・信西が権勢を得て、薬子の変以来の死刑を復活させ源義朝に父・為義らを処断させた。

 

 しかし、平治元年(1159)では平清盛らに敗れ、信西は逆に自害させられ、貞慶の父・藤原貞憲は土佐に配流となった。貞慶は11歳で出家し、法相宗大本山・興福寺に入る。

 

 伊豆に流された後、赦されて奈良大安寺にあった叔父・覚憲が治承4年(1180)興福寺権別当、文治5年(1189)別当、建久元年(1190)権僧正となり、貞慶はこれに師事した。

 

 しかし、建久4年(1193)南都仏教の退廃を嘆いて笠置寺に隠遁し、伽藍を整備して笠置寺の最盛期を現出した。

 

 元久2年(1205)『興福寺奏上』を起草し、法然の専修念仏を批判してその停止を求め、これにより承元元年(1207)法然や親鸞らが流罪となった。

 

 承元2年(1208)藤尾山観音寺に移り、補陀洛海住山寺と改め、建暦3年(1213)59歳で亡くなるまでこの地で過ごした。

 

 海住山寺は藤原長房として参議まで務めた弟子の覚真が継ぎ、貞慶の一周忌となる建暦4年(1214)国宝の五重塔が完成した。

 

 

以下、パンフレットより

 

海住山寺について

 

『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の百人一首の歌で知られる瓶原(みかのはら)を一望におさめる地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造営にさきだつ六年前、天平7年(735)のことと伝えられております。大廬舎那仏造立を発願あそばされた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して、一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を奉安して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとのことです。しかし、この寺は、保延3年(1137)に灰燼の厄に遭い、寺観のことごとくを失ったのであります。
 その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺におかれた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。観音様の浄土は南海の洋上にある補陀落山であります。浄土とは、生ある限りいかなる人も対決しなければならない人間苦・人生苦を解決した真実の楽しみの世界を意味し、この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧にめざめ、生きとし生けるものをいつくしむ慈悲を行ずる道)にほかなりません。解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所とさだめて、観音の浄土にちなんで海住山と名づけられたのでありました。瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみは、あたかも南海の洋上に浮かぶ補陀落山のごとくであり、とりわけうす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものかとさえ思われます。
 

 

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