山城 恭仁宮(山城国分寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大極殿

イメージ 2②大極殿

イメージ 3③七重塔跡

イメージ 4④七重塔礎石

 

訪問日:2017年1月

 

所在地:京都府木津川市

 

 天平9年(737)天然痘の流行により当時の朝廷の政権を担っていた光明皇后の異母兄たち藤原四兄弟も相次いで死去した。

 

 四兄弟に替わって政治を担ったのが橘諸兄で、唐から帰国した吉備真備や玄昉が重用され、藤原氏は四兄弟の1人・宇合の長男・広嗣が大宰府に転任するなど勢力は後退した。

 

 これに不満をもった広嗣は天平12年(740)吉備真備や玄昉を追放すべきとの上表文を朝廷に提出、諸兄はこれを謀叛とみなし、聖武天皇は広嗣に召喚の詔勅を出した。

 

 しかし広嗣はこれに従わず、弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人など1万を率いて挙兵するが、大野東人を大将軍とする 追討軍に敗れて捕えられ、肥前国松浦郡で処刑された。

 

 鎮圧の報告が平城京に届かないうちに天皇は突如都を出て伊賀・伊勢・美濃・近江と巡り諸兄の本拠地山城国・綴喜郡にほど近い相良郡の恭仁宮に遷都した。

 

 天平13年(741)大極殿が平城京から移築されるなど整備が進められるが、都としては完成しないまま天平15年(743)造営は中止され、天皇は近江紫香楽宮に移った。

 

 仏教に深く帰依する天皇は、この間の天平13年(741)国分寺建立の詔を、天平15年(743)には東大寺盧遮那仏像建立の詔を出した。また、荘園発生の基礎となった墾田永年私財法が発布されたのもこの年の話である。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡) 名称変更 平成19年2月6日

 

 恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまいます。
 その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます。

 

木津川市教育委員会