若狭 棡山 明通寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝本堂•同三重塔

イメージ 2②本堂と三重塔

イメージ 3③本堂

イメージ 4④三重塔

 

訪問日:2000年7月

 

所在地:福井県小浜市

 

 律令制のもと、各国は租・庸・調の税が課せられていたが、若狭国では志摩国・淡路国とともに御食国(みけつくに)として海水産物を中心とした贄(にえ)を朝廷に貢進していた。

 

 延喜式によると若狭国は10日毎に「雑魚」を、節日毎に「雑鮮味物」、そして年に一度「生鮭・ワカメ・モズク・ワサビ」を御贄として納めることが定められていた。

 

 また、調は一般的には絹や麻などの糸や布で納められたが、若狭国では塩で納められていた。若狭には8世紀以降に使用された製塩施設が発見されている。

 

 8世紀、若狭国(遠敷郡・三方郡、ただし9世紀に大飯郡が分離)・志摩国・淡路国は2つの郡で一国を成していた。これらの国は海産物には恵まれていたが、田畑は少なかった。それでも国として成立していたのは朝廷にとって何か特殊な場所であったとも推定できる。

 

 

以下、パンフレットより

 

明通寺略縁起

 

延暦のむかし、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麻呂公、ある夜、霊夢を感じ老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元年(806)このところに堂塔を創建し、居士また棡の木をきって、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝う。
爾来壱千百八十年、つねに天下万民の祈願所として、法燈たえることなし。現存の堂塔は、中興頼禅法印の再建にかかり、地方にありながら中央のものにも劣らぬ優秀な密教建築である。