下野 佐野城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②本丸

イメージ 3③堀切

イメージ 4④犬走

 

訪問日:2001年7月

 

所在地:栃木県佐野市

 

 下野唐沢山城主・佐野氏は北条氏康の6男・氏忠が佐野宗綱の娘を娶って家督を継いでいたため、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により追放され、北条氏直に従い高野山に入った。

 

 佐野氏の家督は宗綱の叔父で秀吉の家臣となっていた佐野房綱(天徳寺宝衍)が一時的に継ぎ、天正20年(1592)秀吉の側近・富田一白の5男・信種に宗綱の娘を娶らせて養子に迎え、佐野政綱のち信吉と名乗らせた。

 

 信吉は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍に与して所領を安堵され、慶長7年(1602)徳川家康の意向を受け、堅城・唐沢山城を廃し、佐野厄除け大師・惣宗寺を現在地に移転させて佐野城の築城を開始し、築城途中の慶長12年(1607)には唐沢山城から佐野城に移り、城下町を整備した。

 

 しかし、慶長19年(1614)江戸で火災が起きた際に佐野から江戸へ急行し、消火活動に活躍するが、これがアダとなり、逆に無断参府として幕府に咎められた。

 

 そして同年、伊予宇和島藩主の実兄・富田信高の改易に連座する形で改易され、嫡男・久綱とともに信州松本藩預かりとなった。

 

 元和8年(1622)赦免されて江戸に移ったが、その年のうちに死去した(57歳)。久綱は旗本となり、子孫は旗本寄合3500石として幕末に至った。

 

 

以下、現地案内板より

 

市指定史跡 佐野城跡 犬走

 

 佐野城は春日岡城ともいわれ、唐沢山城主・佐野信吉が慶長7年(1602)に幕府の山城廃止政策を受け、その後、ここに移ったが、慶長19年(1614)に本領を没収されたため廃城になった。自然の丘陵を利用して造られた近世初頭の代表的な連郭式の城である。現在は公園として利用されているため、保存状態がよくその遺構は各所に見ることができる。
 手前の道路はかつて内堀があった場所で、この内堀に沿った丘陵に幅1~2メートル程の帯状の平坦部が造られていた。さらにこの5~6メートルにも同様な遺構が存在していると想定され、通路のような形態から犬走と呼ばれている。犬走の役割としては通路以外に、内堀からはい上がって城に侵入する者を犬走上から槍等により攻撃することや、犬走に上がられても、その上の犬走から攻撃するという、防御施設として堀の機能を強化する点もあげられる。同様な遺構は大阪城等にも見ることができる。
 この犬走は、昭和63年度の急傾斜地崩壊対策事業に伴う発掘調査により確認されたものであり貴重な佐野城の遺構であるため、その一部を保存整備したものである。

 

平成元年9月 佐野市教育委員会