山城 龍谷山 本願寺(西本願寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝唐門

イメージ 2②国宝唐門

イメージ 3③国宝唐門

イメージ 4④国宝阿弥陀堂

イメージ 5⑤国宝御影堂

イメージ 6⑥国宝飛雲閣

 

訪問日:2013年2月

 

所在地:京都市下京区

 

 准如は石山戦争真っ盛りの天正5年(1577)に顕如の3男として生まれた。母は三条公代頼の娘で細川晴元の養女・如春尼。異母兄(同母とも)・教如とは19歳の年の差がある。

 

 天正8年(1580)顕如は織田信長と和睦して紀州鷺森に移るが、強硬派の教如はなおも抵抗を続けたため顕如から義絶され、天正10年(1582)本能寺の変を機に義絶は解かれた。

 

 天正19年(1591)秀吉から現在地の堀川六条に寺地を与えられて京都に移転する。文禄元年(1592)顕如の示寂により、教如が本願寺を継承する。

 

 教如がかつての対織田強硬派を側近として重用したことから、穏健派から不満が噴出し、天下人である豊臣秀吉に訴えた。

 

 文禄2年(1593)教如を警戒する秀吉は10年後に准如に法主を譲ることを命令する。これに強硬派が異議を唱えたことが反って秀吉の怒りを招き、教如は即時隠退させられて17歳の准如が法主となった。

 

 その後も強硬派と穏健派の対立は続き、慶長7年(1602))教如が徳川家康より七条烏丸に寺地を寄進され、東本願寺が分立するに及び、本願寺は東西に分裂した。