①御本館大手門跡
②堀跡
③古地図
訪問日:1998年8月
所在地:岩手県花巻市(旧和賀郡東和町)
慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなった。時代が混沌とする中で、南部信直は徳川家康に接近するが、翌慶長4年(1599)信直は54歳で死去、24歳の嫡男・利直が南部氏27代当主となった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、西軍の会津上杉景勝が東軍の出羽最上義光領に攻め入ると、伊達政宗(34歳)は義光に援軍を送り、利直も出羽に出陣する。
一方で、領土拡大の野心を持つ政宗は利直の留守を衝き、秀吉に改易され南部領となった旧領の回復を悲願とする和賀忠親を煽動して和賀郡花巻城を攻撃させる。
花巻城兵の奮戦により、一揆軍は撃退され岩崎城に籠城、帰国を許された利直は、本拠・三戸城で軍備を整えて花巻城に入り、冬を越した翌慶長6年(1601)一揆を鎮圧した。
その後も南部氏と伊達氏は国境付近で小競り合いを繰り返し、利直は慶長17年(1612)伊達領との国境に近い土沢に城を築き、秀吉に改易された葛西氏の旧臣・江刺隆直を城主とし、伊達氏に備えた。
以下、現地案内板より
土沢城
近世、江刺氏居城の山城。
御本館、中館、西館、東館、などからなり、堀の水は稚部川から導水されたという。
初代城主江刺長作隆直は、旧葛西氏家臣で、南部藩新堀城居城後、伊達藩との藩境守備のためこの地に転封、築城は1612年(慶長17年)の春、廃城は1670年(寛文10年)という。
土沢城の名称は、鏑八幡神社わきの谷川を、古来から土沢と呼称していたので、それに因った城名とされている。
土沢城の縄張(企画設計)は盛岡城や三戸城にも関係したと云われる盛岡藩の野田内匠頭直盛であったとの伝えがある。
城郭の規模(注、当時の1間は約1.91mと推定される)初代城主江刺長作隆直は、旧葛西氏家臣で、南部藩新堀城居城後、伊達藩との藩境守備のためこの地に転封、築城は1612年(慶長17年)の春、廃城は1670年(寛文10年)という。
土沢城の名称は、鏑八幡神社わきの谷川を、古来から土沢と呼称していたので、それに因った城名とされている。
土沢城の縄張(企画設計)は盛岡城や三戸城にも関係したと云われる盛岡藩の野田内匠頭直盛であったとの伝えがある。
御本館 東西34間、南北35間
中館 東西9間、南北18間
西館 東西34間、南北14間
東館 東西12間、南北14間
無名郭 東西17間、南北15間
御堀 幅6間 深1文5寸
中館 東西9間、南北18間
西館 東西34間、南北14間
東館 東西12間、南北14間
無名郭 東西17間、南北15間
御堀 幅6間 深1文5寸
城内屋敷
侍屋敷 表口14間、奥行21間
足軽屋敷 表口7間、奥行21間
古絵図
この絵図は、寛永年間(1620年代)の城郭のありさまを記録したもので、当時の侍屋敷や町屋敷の様子が偲ばれる。
現在、江刺家に伝わる絵図を原寸大に転写したものである。
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