①国宝拝殿
②国宝楽の間
③摂社と梅
④摂社と梅
⑤摂社と梅
⑥中門
訪問日:2013年3月
所在地:京都市上京区
昌泰4年(901)1月、醍醐天皇(17歳)は突如宣命を発し、右大臣・菅原道真(57)を大宰員外帥に、道真の長男で大学頭兼右少弁の菅原高視(26)を土佐介に、右近衛中将・源善(年齢不詳)を出雲権守になどと、父・宇多法皇(35)の側近たちを左遷にした。
法皇が天皇の異母弟で道真の娘婿である斉世親王(16)を皇太弟に立てようという風説が流れたことから、天皇や左大臣・藤原時平(31)らが主導権を奪還するため仕組んだとされる。
法皇はこの知らせを受け急ぎ内裏に向かったが、門は固く閉ざされなすすべがなく処分が決定してしまう。道真は延喜3年(903)大宰府で無念の死を遂げる。
延喜9年(909)時平が急死、延喜23年(923)には時平の甥の皇太子・保明親王が21歳で薨去、皇太孫となった慶頼王も延長3年(925)わずか5歳で夭折した。
これらの不幸は時平らが追い落とした道真の祟りとの風評が立ち、天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄した。
しかし、延長8年(930)天皇がいる内裏清涼殿に落雷が直撃、大納言民部卿・藤原清貫が即死、右中弁内蔵頭・平希世も間もなく死亡、隣の紫宸殿でも公家3人が死亡、近衛2名も死亡する事件が起こる。
これを目の当たりにした天皇はこれ以後体調を崩し、3ヶ月後には皇太子・寛明親王(朱雀天皇)に譲位して46歳で崩御した。
この事件も道真の怨霊が雷神となって雷を操ったなどとの伝説を生んだ。天暦元年(947)朝廷により現在地の北野の地に道真を祀る社殿が造営され、後に時平の甥の右大臣・藤原師輔が自身の屋敷の建物を寄進して壮大な社殿が構築された。
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