山城 大雲山 龍安寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①方丈庭園(石庭)

イメージ 2②方丈庭園(石庭)

イメージ 3③方丈庭園(石庭)

イメージ 4④方丈内部

イメージ 5⑤鏡容池

イメージ 6⑥梅林

 

訪問日:2013年3月

 

所在地:京都市右京区

 

 石庭で世界的に知られる龍安寺は、後に応仁の乱の東軍総帥となる細川勝元が宝徳2年(1450)21歳の時に創建した。

 

 勝元は嘉吉2年(1442)父の死により家督を相続し、文安2年(1445)畠山持国に替わって16歳で管領に就任した。以降、三度・計23年間にわたり管領を務める。

 

 文安4年(1447)後に応仁の乱の西軍の総帥となる山名持豊の養女を正室に迎え、享徳3年(1454)畠山氏の家督相続争いでは持豊と協調して畠山弥三郎を支援して政敵である持国の実子・畠山義就を追放に追い込んだ。

 

 また、嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興に強硬に反対して将軍・足利義政の不興を買った持豊を勝元が弁護して、持豊が出家して宗全と名乗り、事なきを得たこともあった。

 

 しかし、山名氏の勢力が急拡大するにつけ、勝元は斯波氏の家督争いや赤松氏の再興問題で宗全と対立するようになる。

 

 さらに実子のいなかった勝元は宗全の末子・豊久を養子としていたが、文正元年(1466)実子・聡明丸(政元)が誕生すると豊久を廃嫡して仏門に入れ、両者の対立は決定的となった。

 

 応仁元年(1467)上御霊神社で畠山義就と畠山政長が衝突して応仁の乱が勃発、宗全は義就を支持して天皇を擁し、勝元は政長を支持して将軍を擁立して東西に分かれ激突した。

 

 龍安寺も乱の戦火に遭って焼失し、明応8年(1499)勝元の子・政元により再興された。かの石庭は、一説にこの頃4世住持・特芳禅傑により作庭されたと伝わる。

 

 

以下、パンフレットより

 

大雲山龍安寺

 

徳大寺家の別荘だったのを、宝徳2年(1450)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱に焼失して、明応8年(1499)、勝元の子、政元が再興したが、寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。