山城 二条陣屋(小川家住宅) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①二条陣屋

 

訪問日:2004年11月

 

所在地:京都市中京区

 

 小川祐忠は浅井長政の家臣で小川城を本拠としていたが、元亀2年(1571)織田信長に降伏してその旗本となり、天正7年(1579)安土城築城においては瓦奉行を務めた。

 

 天正10年(1582)本能寺の変には続く山崎の戦いでは明智光秀に与するも敗北して羽柴秀吉に降伏した。

 

 清洲会議の結果、柴田勝家の養子で長浜城主となった柴田勝豊の家老となり、天正11年(1583)賎ヶ岳の戦いでは勝豊が秀吉に寝返ったため秀吉方として戦った。

 

 同年の勝豊の死後は秀吉の直臣となり、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、そして朝鮮にも出兵し、慶長3年(1598)伊予今治7万石を与えられ、国分山城を居城とした。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは当初西軍に与し、小早川秀秋に呼応して東軍に寝返ったが、事前に内通を表明していなかったことを咎められ、改易となった。

 

 その後祐忠は武士を捨て近江に逼塞するが、祐忠の嫡男・祐滋あるいは千橘は京都に出て萬屋平右衛門として両替商となって成功を収めた。

 

 その屋敷の周辺には二条城・町奉行所・京都所司代などが存在し、小川家にはこれらを訪れる諸大名を宿泊させるようになり、いつしか二条陣屋と呼ばれるようになったという。

 

 

以下、現地案内板より

 

二條陣屋(重要文化財 小川家住宅)

 

 豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主となった小川土佐守祐忠は、関ヶ原の合戦に破れて出家し、その長男千橘が、萬屋平右衛門と名乗って、この地で米、両替を商ったが、この建物は、その住宅として1670(寛文10)年頃に創建されたものである。
 当家屋は、二条城や京都所司代に伺候する諸大名の陣屋として、また奉行所の公事宿としても利用されたので、ただの住宅ではなく、特殊な構造、設備が施され、防火上の工夫も多い。建築様式は数寄屋造りで、極めて繊細、優美であり、建築学的価値も非常に高いとされている。
 1944(昭和19)年、防火建築として、陣屋式建築として、数寄屋建築としての三点から、当時の国宝保存法に基づく国宝に指定され、現在は重要文化財に指定されている。

 

京都市