山城 京都御所 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①紫宸殿

イメージ 2②清涼殿

イメージ 3③小御所・御学問所

イメージ 4④御常御殿

イメージ 5⑤御池庭

イメージ 6⑥御車寄

 

訪問日:2016年8月

 

所在地:京都市上京区

 

 7月26日から通年公開されており、建物の中に入ることはできないが、それほどまだ知られていないのか、夏とはいえ観光客はあまり多くなく、ゆっくり見学することができた。

 

 延暦13年(794)平安京遷都の時の内裏は現在より1.7km西に在り、現在の御所は臨時の里内裏の一つである土御門東洞院殿の地であった。

 

 元徳3年(元弘元・1331)倒幕の企てが発覚した大覚寺統の後醍醐天皇が京都を脱出した際、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇がここを里内裏として即位し、父の後伏見院が院政を開始した。

 

 正慶2年(元弘3・1333)足利高氏が後醍醐天皇の綸旨に応じて六波羅探題を滅ぼすと、光厳天皇は御伏見院・花園院とともに捕らえられ、光厳天皇の即位はなかったことにされた。

 

 後醍醐天皇の建武の新政は早々に破綻し、建武3年(1336)新田義貞が後醍醐天皇から足利尊氏(高氏改め)追討の宣旨を得てこれを破ると、尊氏は光厳院から義貞追討の院宣を得て逆襲、京都を制圧して後醍醐天皇を幽閉して光厳院の弟・光明天皇を擁立し、光厳院が院政を開始した。

 

 同年末、京都を脱出して大和国吉野に拠った後醍醐天皇は譲与した三種の神器は偽物で光明の即位は無効と主張し、京都と吉野で持明院統と大覚寺統が並立する南北朝時代が始まった。

 

 暦応2年(延元4・1339)吉野で後醍醐天皇が崩御し、一方、正平3年(貞和4・1348)光厳院の第一皇子・崇光天皇が即位、第二皇子・直仁親王が皇太子となり、光厳院が引き続き院政を行い、北朝の優位で固まると思われた。

 

 しかし、観応2年(正平6・1351)足利尊氏・直義兄弟の対立が観応の擾乱に発展すると、尊氏は南朝の後村上天皇に降伏して北朝は廃止され(正平の一統)、翌年京都を奪還した南朝に光厳ら3上皇と直仁親王は拘禁される。

 

 同年、早くも一統は破談となり、3上皇と直仁親王は撤退する南朝に拉致されて大和国賀名生に幽閉され、足利幕府は光厳院の第三皇子・後光厳天皇を神器がないまま即位させた。

 

 賀名生で出家した光厳院は河内金剛寺に移された後、延文2年(正平12・1357)解放されて5年ぶりに京都に帰還し、世俗を絶って貞治3年(正平19・1364)に崩御した。

 

 明徳3年(1392)南北朝合一が成立すると、かの里内裏が正式な御所となり、明治2年(1869)明治天皇の東京遷都まで存続した。

 

 

以下、パンフレットより

 

歴史と京都御所

 

 桓武天皇は、延暦3年(西暦784年)に都を奈良の平城京から京都の長岡京へ移され、同13年(794年)、さらに平安京に遷都された。平安京は、現在の京都市街の中心地に当たるところに造営され、南北約5.3km、東西約4.5kmの方形で、東西の中央を南北に通ずる朱雀大路(現在の千本通)によって左京(東方)と右京(西方)に二分、それぞれ大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。そして、都の北端にある一条大路に内接して南北約1.4km、東西約1.2kmの大内裏(宮城)があり、政務や儀式を行う朝堂院、豊楽院、太政官その他の官庁が置かれていた。朝堂院は大内裏の南部中央、朱雀大路から入った正面にあり、院内の北部には正庁である大極殿(現在の千本丸太町あたり)が建っていた。ちなみに、今の平安神宮の社殿は当時の大極殿を縮小して復元したものである。

 

(中略)

 

 現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれる里内裏の一つで、平安時代末期以降、しばしば里内裏や仙洞御所などに用いられ、元弘元年(1331年)光厳天皇がここに即位されてから、明治2年(1869年)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。しかし、この間幾度となく火災と再建を繰り返し、天明8年(1788年)の類焼による再建の際、幕府は老中松平定信を総奉行とし、当時の故実家裏松固禅(裏松光世)らの考証によって紫宸殿・清涼殿などの意匠を平安の古制に復元し、また、承明門、飛香舎などの失われていた建物の一部を復興するなど、古制への復帰を図り、新内裏は寛政2年(1790年)に一往完成した。その後、この内裏も嘉永7年(1854年)に焼失したが、その再建に当たって幕府は、寛政時の内裏の計画をほとんどそのまま踏襲し、翌安政2年(1855年)に異例の速さをもって再建を果たし、今日に至っている。