山城 妙顕寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①妙顕寺城跡西福寺

イメージ 2②妙顕寺城跡西福寺

イメージ 3③妙顕寺城跡西福寺

 

訪問日:2004年11月(①②) 2012年12月(③)

 

所在地:京都市中京区

 

 妙顕寺は日蓮の遺命を受け京都で布教をした日像が元亨元年(1321)今小路に建立し、建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となり、暦応4年(1341)光厳院の院宣により四条櫛笥に移転した。

 

 嘉慶元年(1387)比叡山衆徒により伽藍を破却され若狭小浜に避難し、足利義満の斡旋で明徳4年(1393)三条坊門堀川に伽藍を再建し、寺号を妙本寺と改めた。

 

 さらに応永20年(1413)にも比叡山衆徒により破却され、100年以上たった永正18年(1521)になり、足利義稙の命により二条西洞院に再建され、寺号が妙顕寺に戻された。

 

 天文5年(1536)延暦寺に六角定頼の援軍を加えた6万が妙顕寺を含む日蓮宗二十一本山を悉く焼き払い、法華衆の多くの人々が殺害された。この時の兵火による被害は応仁の乱を上回るものだったという。

 

 京都の法華衆は壊滅し、京都の日蓮宗は禁教とされ、寺は堺に避難するが、天文11年(1542)後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、天文17年(1548)妙顕寺も二条西洞院に再建された。

 

 天正11年(1583)大坂城の築城を始めた羽柴秀吉が妙顕寺を小川寺内(現在地)に移転させ、その跡に二条新邸を構築し、京都での宿所とした。天守や濠を備えた本格的なもので、天正15年(1587)聚楽第が完成するまでの重要な時期を秀吉はここを京都の拠点としていた。

 

 

以下、現地案内板より

 

豊臣秀吉妙顕寺城跡

 

 この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城の故地である。妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。天正11(1583)年9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。現在、城跡はしのぶべくもないが、古城町という地名となって、よすがを伝えている。  

 

京都市