山城 源氏六条堀川館 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①左女牛井之跡

 

訪問日:2012年12月

 

所在地:京都市下京区

 

 源為義は永長元年(1096)前九年の役・後三年の役で活躍した河内源氏・源義家の次男・義親の4男として誕生する(義家の子とも)。父・義親は康和4年(1102)九州で略奪や人民を殺害するなどして隠岐に配流となるが、出雲で反乱を起こす。

 

 祖父・源義家は嘉承元年(1106)68歳で亡くなった。為義の叔父にあたる義家の長男・義宗は既に亡く、4男・義国(足利氏祖)は叔父の源義光(新羅三郎)・義業(佐竹氏祖)父子と常陸国で戦い勅勘を蒙るという状況の中、3男・義忠が河内源氏の家督を相続した。

 

 嘉祥3年(1108)義親が、平正盛(清盛祖父)の追討を受けて誅され梟首となった。さらに天仁2年(1109)義忠が暗殺される。

 

 犯人は義家の弟・義綱とその3男・義明とされ、為義が白河院より追討を命じられた。義綱は捕えられ義明ら息子たちは悉く自害していった。しかし後に真犯人は義光であると判明する。

 

 為義は六条堀川館に入り、河内源氏を事実上継承する。しかし出世には恵まれず、同い年の平忠盛(清正父)に先を越されるばかりで、保延2年(1136)には鳥羽上皇の勘気を蒙り無官となった。

 

 復権を目指す為義は摂関家に近づいて藤原忠実・頼長父子に臣従し、これが実を結び、久安2年(1146)10年ぶりに還任して検非違使に復帰する。この頃長男・義朝が東国から戻ってくる。

 

 義朝は妻の実家・熱田大宮司家を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家に近い父・為義や弟たちと対立するようになる。そして仁平3年(1153)義朝は下野守に任ぜられ、為義を抜いて受領となる。

 

 一方の為義は九寿元年(1154)九州に派遣された8男・為朝の乱行の責を問われ解官され、久寿2年(1155)後継者であった4男・頼賢も春日社と対立して解官された。また同年、東国に下向していた次男・義賢が義朝の長男・義平と戦って敗れ滅ぼされた。

 

 保元元年(1156)鳥羽法皇が崩御してほどなく保元の乱となり、崇徳上皇に与した為義は後白河天皇に与した義朝や平清盛に敗れた。

 

 義朝は助命を嘆願したが許されず、為義と頼賢・頼仲(5男)・為宗(6男)・為成(7男)・為仲(9男)兄弟は義朝により斬首され、逃亡した8男・為朝は近江で捕まったが武勇を惜しまれ伊豆大島に流罪となった。

 

 これらの処刑は大同5年(810)薬子の変で藤原仲成が処刑されて以来346年前ぶりに平安時代の政権が律令に基づいて執行されたものである。

 

 

以下、現地案内板より

 

左女牛井跡

 

京の名水として平安時代より知られ源氏の邸いわゆる六條堀川館の中にとりいれられていた。
室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという江戸初期元和2年5月織田有楽斎はこれを改修した。内径2尺4寸の丸井戸であった。その後天明の大火で埋もれたが、寛政2年、薮内家6世竹隂によって修補され、その碑が7世竹猗によって建てられていたが円井戸とともに第二次世界大戦最末期の民家の強制疎開とともに撤去された。昭和44年 醒泉小学校百周年紀念事業の一つとしてここに碑をたて名水を偲ぶよすがとした。