摂津 難波宮 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①復元大極殿基壇

イメージ 2②高床式倉庫(5世紀)

 

訪問日:2005年3月(①) 2012年4月(②)

 

所在地:大阪市中央区

 

 孝徳天皇(軽皇子)は敏達天皇の孫で皇極天皇(斉明天皇)の同母弟である。皇極天皇4年(645)皇極天皇の皇子・中大兄皇子らが蘇我入鹿らを殺害し、大豪族・蘇我総本家を滅ぼした(乙巳の変)。

 

 中大兄皇子が辞退したため、皇極天皇は当時50歳であった軽皇子に譲位、これは史上初めての譲位とされる。軽皇子は立太子を経ずに即位し、中大兄皇子が皇太子となった。

 

 この年、初めて大化という元号が用いられ、その施政を大化改新と一般的に呼ばれるが、改新の実態やその主体については議論が分かれている。

 

 孝徳天皇は難波宮(難波長柄豊碕宮)に遷都し、白雉3年(652)完成したが、中大兄皇子は翌白雉4年(653)飛鳥への還都を要求した。

 

 天皇がこれを拒否すると皇子は母や皇后である間人皇女(皇子の同母妹)を連れて飛鳥に去ってしまい、多くの官僚もこれに従った。

 

 天皇は退位も考えたといい、山城の山碕に宮殿を造営中の翌白雉5年(654)難波宮で崩御した。59歳、崩御とともに元号が使用されなくなり、西暦686年(686)1年だけ朱鳥が使用されたが、701年の大宝元年まで主に干支が使用された。

 

 翌年(655・斉明天皇元年)皇極前天皇が重祚し、斉明天皇として飛鳥板蓋宮で即位した。天武天皇が天武天皇12年(683)複都制の詔により、飛鳥とともに難波宮を都としたが、朱鳥元年(686)に全焼してしまった。

 

 降って神亀3年(726)聖武天皇が同じ場所に後期難波宮を造営し、平城京の副都とし、天平16年(744)には正式にここへの遷都が発表された。

 

 しかし、翌年には紫香楽宮への遷都が発表され、同年には平城京に戻っている。延暦3年(784)長岡京の造営に伴い、大極殿などが移築された。

 

 

以下、現地案内板より

 

遺跡の概要
 発掘調査により、難波宮跡は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされてきた。
 前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡ぼされて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊碕宮がこれにあたると考えられている。天武天皇朱鳥元年(686年)に、火災で全焼するまでつづいたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。
 後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿である。大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていた。天平16年(744年)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。
 前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されている。港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことがしのばれる。