大和 華厳宗大本山 東大寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①金堂(大仏殿)

イメージ 2②廬舎那仏像(大仏)

イメージ 3③南大門

イメージ 4④転害門

イメージ 5⑤二月堂

イメージ 6⑥三月堂(法華堂)

 

訪問日:2002年4月(⑤⑥) 2009年11月(①~④)

 

所在地:奈良県奈良市

 

 聖武天皇(首皇子)は大宝元年(701)42代文武天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原不比等の長女・宮子だが心的障害にかかり、天平9年(737)に癒えるまでこの母子は36年間対面することがなかった。

 

 慶雲4年(707)文武天皇が崩御し、その母である元明天皇(天智天皇皇女)が即位、和銅7年(714)に皇子は立太子されるが、霊亀元年(715)文武の姉・元正天皇が即位、24歳になった神亀元年(724)になってようやく即位した。病弱であったことと皇族・藤原氏の対立が原因だったという。

 

 神亀6年(729)長屋王の変で皇族の実力者・長屋王が自殺、長屋王が反対していた不比等の3女・藤原光明子が立后される。叔母と甥の関係だが、非皇族として初の立后である。

 

 天平9年(737)藤原四兄弟らが次々と亡くなるなど、この頃は疫病や災害が多発し、天平12年(740)には九州で藤原広嗣の乱が発生し、大野東人をして鎮圧させた。天皇は同年末、恭仁京遷都を発表し、人心の一新を図る。

 

 このような政情の中、天皇は仏教に深く帰依するようになり、天平13年(741)には国分寺建立の詔を、天平15年(743)には東大寺廬舎那仏像の建立の詔を発した。

 

 同年には皇后の異父兄・橘諸兄の指導のもと、荒れ地対策の為に墾田永年私財法を制定した。しかし結果として律令制の一部崩壊を招くことになる。

 

 天平16年(744)一人息子の安積親王が17歳で急死(母は県犬養広刀自、暗殺説も)天皇は恭仁京や難波京への遷都を繰り返し、天平17年(745)平城京に戻り、東大寺の本格的な造営が始まった。

 

 天平勝宝元年(749)光明子の子である娘・孝謙天皇に譲位、生前譲位した初の男性天皇であった。

 

 天平勝宝4年(752)念願の大仏開眼法要を迎えるが、天平勝宝8年(756)崩御、東大寺が竣工したのはその後の天平宝字2年(758)のことであった。

 

 完成当時の東大寺は金堂の北の講堂や東西2基の七重塔など多くの堂塔が存在した。治承4年(1181)平重衡による南都焼討や、永禄10年(1567)の三好・松永の東大寺の戦いなどで多くは焼失した。

 

 大仏殿はその都度再建され、現在のものは宝永6年(1709)の落慶、また大仏の頭部は元禄5年(1692)の開眼である。

 

 南大門は応和2年(962)台風で倒壊し、正治元年(1199)再建された。なおこれより大きな西大門が存在したが、天正11年(1583)暴風により倒壊し、再建されなかった。

 

 三月堂(法華堂)は奈良時代からのもの、二月堂は寛文7年(1667)お水取りの際の失火で焼失し、2年後に再建されたものである。転害門も奈良時代からのものだという。
 
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