三河 西尾城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①丑寅櫓

イメージ 2②鍮石門

イメージ 3③鍮石門内部

イメージ 4④本丸水濠東側

イメージ 5⑤本丸水濠北側

イメージ 6⑥本丸表門跡

 

訪問日:2008年8月

 

所在地:愛知県西尾市

 

 吉良氏は足利義氏の庶長子・吉良長氏が三河国幡豆郡吉良荘西条を、4男・義継が同荘東条を領したことに始まった。また、長氏の次男・国氏は同郡今川荘を分与されて分家し、今川氏を称している。

 

 元弘の乱では西条吉良氏4代目・満義と嫡男・満貞、東条吉良氏の4代目・貞家と満家はいずれも宗家の足利尊氏の挙兵に従ったが、やがて貞家・満家は奥州管領として奥州に去り、満義・満貞が東条を接収した。

 

 満義・満貞は観応の擾乱が勃発すると、尊氏の弟・直義に与して、観応3年(正平7・1352)その没後もその養子・直冬や南朝と結んで尊氏に敵対を続けたが、やがて満義は満貞と袂を分かち尊氏に帰順した。

 

 しかし、延文元年(正平11・1356)満義が亡くなると東条の家臣達が当時9歳の4男・義貴(のち尊義)を奉じて後期東条吉良氏として独立、尊氏に与して満貞に対抗する。

 

 そして満貞が尊氏に帰順すると両家の和睦も成立したが、その後も両家は対立・抗争を繰り返し、その勢力を弱めていく結果となり、庶流の今川氏に完全に逆転されることとなった。

 

 西条吉良氏13代目・義安は東条吉良氏の持広が嗣子なく没したため、西条吉良氏を弟・義昭に譲り、自らは東条吉良氏の家督を継いだ。

 

 しかし、天文18年(1549)尾張織田氏に与した義安は今川氏に捕えられ、人質として駿河に送られ、今川義元は義昭に東条吉良氏も継がせて吉良氏を統一し、配下に組み込んだ。

 

 ところが永禄3年(1560)桶狭間の戦いの結果今川氏の後ろ盾を失った義昭は、永禄5年(1562)三河一向一揆と結んで徳川家康と戦うが、敗れて没落した。

 

 義安は家康から東条西条を統一して領することが認められ徳川氏の家臣となり、江戸時代の吉良氏は高家筆頭として忠臣蔵の吉良上野介義央が殺害され、その嫡孫・義周が改易されるまで続いた。(のちに旗本として再興される)