加賀 大聖寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②馬洗池

イメージ 3③遠景

イメージ 4④長流亭

 

訪問日:1998年12月

 

所在地:石川県加賀市

 

 山口宗永は天文14年(1545)に宇治田原城主・山口光広(秀康)の子として生まれたとされる。父は天正10年(1582)本能寺の変における徳川家康の神君伊賀越えを助けた人物という。

 

 その後、豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597)からは小早川氏を相続した小早川秀秋を補佐するため、豊臣政権から付家老として派遣され、ともに朝鮮にも出陣した。

 

 しかし、翌年に秀秋が筑前名島城から越前北ノ庄城に転封になり、宗永は加賀大聖寺城主となったが、秀秋の転封は取り消されたものの宗永は加賀に留まった。

 

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、一方東軍の金沢城主・前田利長は2万5千の兵を率いて8月1日、加賀松山城に布陣し、8月2日、5百余の宗永に降伏を要求する。

 

 宗永はこれを拒み、小松城の丹羽長重や北ノ庄城の青木一矩の救援を待つが間に合わず、8月3日嫡男の修弘をはじめ城兵は悉く討死、宗永も自害した。

 

 次男・弘定は後に大坂城に入り、慶長20年(1615)大坂夏の陣で木村重成に属し、若江の戦いで討死した。

 

 

以下、現地案内板より

 

加賀市指定文化財(史跡) 大聖寺城跡  指定年月日 昭和35年10月7日

 

 大聖寺町西端の標高約60mの錦城山に所在する平山城である。「太平記」以降、南北朝、一向一揆の争乱の中に攻防の場として文献にたびたび登場している。
 織田信長の支配以後は戸次広正、拝郷家嘉が置かれ、柴田勝家 没後は豊臣秀吉の部下溝口秀勝が、その後山口宗永が領した。慶長5年(1600)関ヶ原の役で西軍に組した山口宗永は、東軍側の前田利長の攻撃を受け、同年8月3日宗永軍は敗れた。
 寛永16年(1639)に成立した大聖寺藩は城を造らず、一般人の入山を禁止し、自らは麓に館を構えたので保存状態は良かった。
 本丸、二の丸、三の丸、東丸、馬洗池や土塁などに山城の面影を残し、近年、遊歩道が整備されて散策を楽しむことができる。          

 

昭和61年12月  加賀市教育委員会