紀伊 和歌山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守曲輪

イメージ 2②天守曲輪内部

イメージ 3③二の門櫓と乾櫓

イメージ 4④紅葉渓庭園鳶魚閣

イメージ 5⑤松の丸

イメージ 6⑥岡口門

 

訪問日:2001年5月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 徳川頼宣は慶長7年(1602)、将軍に就任する直前の徳川家康の10男として生まれ(幼名長福丸)、翌年には2歳で常陸水戸に20万石を与えられるが、家康の下で育てられた。

 

 慶長14年(1609)熊本藩主加藤清正の5女・八十姫と婚約、翌年には大御所・家康と同居のまま駿府藩50万石に転封された。

 

 慶長16年(1611)家康と豊臣秀頼の二条城の会見においては兄・義直とともに秀頼を東寺まで出迎え、のちに返礼の名代として大坂城を訪問した。

 

 しかし、慶長19年(1614)徳川と豊臣の関係は破綻し、大坂冬の陣に至り初陣を果たし、夏の陣にも出陣した。

 

 家康死後の元和3年(1617)、1歳年長の八十姫を正室に迎える。元和5年(1619)兄の将軍・徳川秀忠により、紀伊和歌山55万5千石に転封となった。大坂城を望んだが叶わなかったともいわれる。

 

 慶安4年(1651)慶安の変で自害した由比正雪の遺品から頼宣の書状が見つかり、幕閣から謀反の疑いをかけられ、10年間帰国を許されなかった。しかし書状は偽造だったとされ、処分は免れた。

 

 また大陸では寛永20年(崇禎17・1644)、明が清により滅ぼされ、のちの台湾・鄭氏政権の祖・鄭成功(日明のハーフ)が日本に援軍要請した際、頼宣は出兵に積極的だったという(異説あり)。

 

 寛文7年(1667)66歳となった頼宣は嫡男・光貞に家督を譲り隠居、紀州藩主として実に47年余にわたる治世であった。寛文11年(1671)70歳で亡くなった。

 

 5代藩主でのちに8代将軍となった徳川吉宗は光貞の4男で、頼宣の孫にあたる。

 

 

以下、パンフレットより

 

和歌山城と歴代城主

 

天正13年(1585)、豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命をうけて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地へ戻ることはなかった。翌天正14年(1586)に、秀長の家臣である桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城した。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。
元和5年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入城した。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。頼宣の入城の際には銀二千貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施された。これらの政策はその後250年間続く和歌山城の繁栄の基礎となった。