播磨 細工所陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①庭石

イメージ 2②標柱

 

訪問日:2016年5月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 一橋徳川家は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の4男である宗尹が元文5年(1740)に興し、江戸城一橋門内に邸宅を構え、延享3年(1746)武蔵・下野・下総・甲斐・和泉・播磨・備中の7カ国に散在した領地計10万石を与えられた。(後に越後が加わり8カ国に)

 

 田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つで、その家格は徳川御三家に次ぐものであったが、後にこの家から家斉・慶喜とふたりの将軍を輩出している。これは吉宗・家茂(慶福)を出した紀州徳川家と並び、他の御三家・御三卿は将軍を出すことはなかった。

 

 慶応2年(1866)将軍家を相続した慶喜に代わって一橋徳川家を相続したのは36歳の茂栄であった。この人は尾張藩の支藩・高須藩主の出身で、兄は尾張藩主となった徳川慶勝、弟は会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬がおり、高須4兄弟と呼ばれた。

 

 茂栄は初名を建重といい、嘉永3年(1850)父の隠居により高須藩主となり、義比と改名した。安政5年(1858)安政の大獄により隠居謹慎した慶勝(当時は慶恕)に代わって尾張藩主となり徳川茂徳と改名した。

 

 万延元年(1860)の桜田門外の変で慶勝の謹慎が解け、文久3年(1863)慶勝の子・義宜に家督を譲り、隠居して玄同と号した。

 

 その後、一橋徳川家を相続して茂栄と改名し、明治維新において徳川一門の総代として新政府との交渉にあたった。慶応4年(1868)徳川家達の徳川宗家相続が認められ、茂栄は宗家から独立して立藩した。(それまでは将軍家の家族という扱いだった)

 

 明治2年(1869)版籍奉還により廃藩となり、領地が分散していたのが災いしたか、茂栄は藩知事にはなれなかった。明治17年(1884)数え54歳で亡くなった。

 

 同年跡を継いだ嫡男・達道は華族に列して伯爵を授けられた。その養嗣子・宗敬は最後の貴族院副議長で、サンフランシスコ講和条約の日本側全権委員のひとりであった。

 

 

以下、現地標柱より

 

寛延年間(1748-51)に徳川御三卿のひとつ一橋家の領地陣屋として始まったとされる。