讃岐 屋嶋城(屋島寺) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①屋島寺から北嶺

イメージ 2②城跡碑

イメージ 3③眺望

イメージ 4④屋島寺境内

イメージ 5⑤屋島寺本堂

イメージ 6⑥屋島古戦場を望む

 

訪問日:2009年10月

 

所在地:香川県高松市

 

 屋嶋城は長らく幻の城であったが、平成10年(1998)に南嶺山上に石垣が発見されたのを嚆矢に、城門跡の発見、平成21年(2009)には発掘調査による築城年代の確認とその全容の解明が進み、今年の3月からは復元された城門遺構が整備されて一般公開されているそうだ。

 

 天智天皇2年(663)倭・百済復興軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことから、中大兄皇子は唐・新羅の侵攻に備え、対馬から大和に至る要衝に大規模な防御施設を築いた。屋嶋城もそのひとつとして、天智天皇6年(667)に築かれた。

 

 結局、唐・新羅が倭に押し寄せることはなく、閉鎖された屋嶋城の跡地に律宗の開祖・鑑真が天平勝宝6年(754)屋島寺を開創したと伝えられている。

 

 時は移り、寿永2年(1183)木曾義仲に敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて九州大宰府まで逃れたが、九州の在地勢力の抵抗に遭い、流浪の末讃岐国屋島に本拠を置いた。

 

 寿永3年(1184)義仲は源範頼・義経に敗れて滅び、平家はその隙に勢力を回復して摂津福原まで進出したが、一ノ谷の戦いで範頼・義経に大敗し、一門の多くを失った。

 

 しかし、瀬戸内海の制海権は水軍を有する平家が握り、水軍を持たない源氏は攻めあぐね範頼は鎌倉に帰還し、後白河法皇は平宗盛に神器の返還と源平の和睦を打診するが、宗盛はこれを拒否した。

 

 同年、法皇は安徳天皇を廃し、神器がないままその弟の尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させ、朝廷と平家は完全に決裂し、平家は再び山陽道へ押し寄せた。

 

 源頼朝は京都に留まっていた義経に追討を命じようとしたが、京都の治安悪化のため法皇がそれを許さず、範頼に和田義盛・足利義兼・北条義時らを付けて西国に派遣したが、戦況は芳しくなかった。

 

 法皇の信頼を得て検非違使尉に任ぜられていた義経は、元暦2年(1185)法皇を説得して西国出陣の許可を得て、摂津水軍渡辺党・熊野水軍・伊予水軍を味方にして摂津渡邊津に兵を集結させた。

 

 義経は暴風雨を衝いてわずか5艘・150騎と伝えられる兵力で出港した。ちなみに梶原景時はこの時範頼に従軍していたと思われるふしがあり、逆櫓の逸話はフィクションである可能性がある。

 

 
以下、現地案内板より

 

屋島城跡

 

 屋島城跡は、南嶺と北嶺の中間で「櫓が丘」と呼ばれており山腹の石垣が古城跡です。
 天智天皇のむかし、白村江の戦いで敗れ、唐、新羅軍の侵入に備えて築城。665年に長門城(山口県)大野城・椽城(福岡県)を、667年にはここ屋島城と大和に高安城を築きました。このことは『日本書紀』で明らかにされています。

 

高松市