下野 足利学校 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①裏門と方丈

イメージ 2②方丈

イメージ 3③孔子廟

イメージ 4④庭園と孔子廟

イメージ 5⑤庭園

イメージ 6⑥史跡標柱

 

訪問日:2009年8月

 

所在地:栃木県足利市

 

 足利学校の創設については、古くは大宝律令(701年制定)により各国に設置された教育機関・国学であったという説から、承和6年(839)または9年に小野篁によるという説、鎌倉時代初期の文治年間の足利義兼説、一番新しいのは永享4年(1432)上杉憲実による再興ではなく創設であるという説があり、いずれも決め手に欠けるとされている。

 

 憲実が文安4年(1447)に定めた足利学校で教えるべき学問は、三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選とされ、儒学を中心に易学・兵学・医学などを教え、仏教色は排されていた。

 

 学費は無料で、学生は入学と同時に僧籍となり、敷地内に自給自足のための菜園や薬草園があった。また、ここの出身者が戦国武将に仕えるということも多かった。(曲直瀬道三など)

 

 享禄年間に火災に遭ったが北条氏政の支援を受けて再興され、学生3千人と伝えられる最盛期を迎えた。宣教師・ザビエルも日本最大のアカデミーであると伝えている。

 

 天正18年(1590)の小田原征伐により北条氏・足利長尾氏という庇護者を失い、古典収集に励む関白・豊臣秀次に蔵書を持ち出されたりしたが、9代庠主(校長)・三要が新領主・徳川家康の信任を得て存続の危機を脱した。

 

 しかし江戸時代に入ると朱子学が官学とされて衰微し、教育機関というより貴重な古典の蔵書を有する図書館的な役割のほうが注目された。

 

 明治に入り、孔子廟などの建物は残っていたが組織は破綻しており、廃藩置県で足利県に管理が移ったものの、間もなくの明治5年(1872)廃校となった。