備後 桜山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①三原城より望む

 

訪問日:2003年3月

 

所在地:広島県三原市

 

 鎌倉時代に備中・備後の太守である山名氏正が居城し、弟・備中守に討ち取られたというが詳細はわからない。南北朝時代の南朝の忠臣・桜山茲俊が挙兵したという桜山城(福山市)とは無関係のようだ。

 

 小早川隆景は三原城築城の際にこの桜山城を取り込んで甲の丸として整備した。日本海と瀬戸内海の違いはあるが、後の萩城詰の丸にも通じるような気がする。

 

 文禄3年(1594)秀吉は当時40歳にして嗣子のいなかった毛利輝元の養子として義理の甥である羽柴秀俊を送り込もうとする。隆景はすでに甥の秀元が輝元の後継に決まっているとして、自らの養子に秀俊を迎えた。後の小早川秀秋である。

 

 文禄4年(1595)隆景は筑前と家督を秀秋に譲り、三原城に隠居した。そして三原城のさらなる修築を開始し、翌年にかけて隠居所とは思えない湊から桜山にいたる大要塞を完成させた。

 

 隆景は65歳となった慶長2年(1597)に急死、黒田官兵衛はこれで日本に賢人はいなくなったとその死を悼んだという。

 

 後継者の秀秋は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの功により備前・美作・備中東半に55万石を与えられたが、慶長7年(1602)21歳の若さで亡くなり、小早川家は断絶した。