①天守台
②天守台
③天守台
④舟入櫓
⑤舟入櫓
訪問日:2002年12月(③④⑤) 2003年3月(①②)
所在地:広島県三原市
沼田・竹原の両小早川家を相続した小早川隆景は2年後の天文21年(1552)高山城から沼田川対岸の新高山城を築城して移った。
以来、隆景は毛利一門に組み込まれた精強な小早川水軍を率い、弘治元年(1555)厳島の戦いや弘治3年(1557)大内義長の周防・長門攻略で活躍した。
次兄の吉川元春とともに毛利両川と呼ばれ、父・毛利元就、長兄・毛利隆元、甥・毛利輝元を補佐し、永禄9年(1566)出雲尼子氏を滅ぼした月山富田城の戦い、永禄10年(1567)の伊予出兵、さらに豊後大友氏との戦いなど各地に転戦した。
天正2年(1574)毛利氏と織田信長の対立が表面化しはじめ、天正4年(1576)15代将軍・足利義昭が毛利領の鞆に落ち延びてくると毛利氏は織田氏と断交するに至った。
同年7月の第一次木津川口の戦いで隆景率いる小早川水軍・村上水軍などの毛利水軍が織田方の九鬼水軍を破る。しかし、2年後の第二次木津川口の戦いに鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗れ、大阪湾の制海権を失った。
天正10年(1582)本能寺の変を秘した織田氏武将の羽柴秀吉と和睦するが、変の発覚後、追撃を主張する元春を抑えて毛利氏は兵を引いた。同年、隆景は居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城に移す。
中立を保った天正11年(1583)の秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦い以降は秀吉に協力し、甥で養子の小早川元総(秀包)を人質として秀吉に差し出した。
隆景と毛利氏の離間を目論む秀吉は、天正13年(1585)四国征伐後に隆景に伊予一国を与えて独立大名として扱ったが、隆景はあくまでも毛利氏から与えられたという体裁を保ち、本拠も三原のままとした。
さらに九州征伐後の天正15年(1587)には筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられ、固辞したものの押し切られて筑前名島に居城を移し、一旦三原城を離れた。
以下、現地案内板より
国史跡 小早川氏城跡三原城跡
昭和32年12月11日指定 所在 三原市 館町・本町・城町
三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。
城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。
小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、三原駅が開業した。
今では、市街化がすすみ、天主台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。
城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。
小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、三原駅が開業した。
今では、市街化がすすみ、天主台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。
三原市教育委員会