大和 二上山 當麻寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝本堂

イメージ 2②講堂と金堂

イメージ 3③護念院カラ国宝東塔

イメージ 4④西南院カラ西塔東塔

イメージ 5⑤国宝梵鐘

イメージ 6⑥奥院庭園と楼門

 

訪問日:2016年5月

 

所在地:奈良県葛城市

 

 當麻寺は葛城氏の一族の當麻氏の氏寺として建立されたと推定されている。本堂の下からは墳墓が検出されており、天武天皇元年(672)に壬申の乱で功を挙げた當麻真人国見によるものであろう。

 

 本堂(曼荼羅堂)は国宝に指定されており、棟木に永暦2年(1161)の墨書が発見されているので平安末期の建築であるが、奈良時代の部材が転用されている。国宝の厨子(8世紀末~9世紀初頭)に本尊の當麻曼荼羅(国宝)を安置している。

 

 曼荼羅は由来を記した銘文に天平宝字7年(763)とあり、学術的には中将姫伝説にいう蓮糸ではなく、絹糸・平金糸・撚金糸を交えた綴織で、製作地は国産説と中国(唐)説があり、中国説が有力のようだ。

 

 金堂(重要文化財)は鎌倉時代の再建であり、かつてはここが中心堂宇であった。講堂(重要文化財)は鎌倉末期の乾元2年(1303)の再建で、4体の重要文化財など多くの仏像を安置する。金堂・講堂は治承4年(1180)平重衡による南都焼討の際に焼失していた。

 

 東塔は奈良時代末期のもので創建時のものと推定されている。西塔は平安時代初期のものと推定されている。勿論いずれも国宝に指定されている。

 

 梵鐘(国宝)は無銘だが日本最古級と推定されており創建当時のものと考えられている。

 

 當麻寺には本坊はなく、これらの中心伽藍は真言宗5院と浄土宗8院の子院によって管理されている。その中でも浄土宗の奥院は江戸時代初期の本堂・方丈・鐘楼門が重要文化財に指定されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

當麻寺

 

當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。用明天皇の皇子麻呂子王が推古天皇20年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まりその後天武天皇白鳳11年(681)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。金堂、講堂が南北に一直線に並び金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ちさらに本堂、薬師堂、仁王門などが独特の伽藍配置で建ちならんでいます。とくに古代に建立された東西両塔が完備している姿は全国でも當麻寺だけとして有名です。宗旨としては初め三論宗を奉じていましたが弘法大師が参籠してから真言宗にかわり鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり以後現在まで真言浄土の二宗を併立し八ヶ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しいかたちになっています。
また金堂にある弥勒仏座像や日本最古の梵鐘をはじめ数多くの貴重な寺宝を今に伝えており国宝・重要文化財に指定されているものも少なくありません。
ボタンの名所としても有名で4月下旬より境内にはボタンの花が咲き誇り落ちついた雰囲気に色をそえています。
5月14日には、中将姫ゆかりの”練供養„が行われ全国から集まった参詣者たちで境内は大変なにぎわいとなります。

 

平成元年3月吉日  葛城市観光協会

 

 

中将姫

 

 中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、ひばり山に捨てられてしまいました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより當麻寺へ入り、称讃浄土経の一千巻の写経を達成し、十七歳で中将法如として仏門に入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は五色に染まりました。そしてその蓮糸を、一夜にして一丈五尺(約4メートル四方)もの蓮糸曼荼羅に織り上げました。姫が二十九歳の春、雲間から一条の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。「練供養」は、その伝承を再現したもので、毎年5月14日に當麻寺において行われています。
 
 
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