①新徳禅寺
②八木邸
③前川邸
④壬生寺
⑤島原・輪違屋
⑥光縁寺
訪問日:2016年5月
所在地:京都市中京区
文久2年(1862)幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を容れ、将軍・徳川家茂の上洛に際し、将軍警護のため浪士を募集、翌文久3年(1863)234名の浪士組を率いて中山道を京都へと向かった。
京都に入った八郎は壬生の新徳寺で演説し、目的は将軍の警護ではなく尊皇攘夷にあると述べ、翌日には朝廷に建白書の受領を願い出てこれが受理される。
この動きを察知した幕府は浪士組を江戸に呼び戻すが、あくまでも将軍警護のための京都残留を申し出た芹沢鴨らの水戸派と近藤勇らの試衛館派の計13名は壬生村に残った。
八木源之丞の屋敷に分宿していた芹沢・近藤らは京都守護職・松平容保に嘆願書を提出し、彼らは会津藩預りとなり、八木邸を屯所とする壬生浪士組を結成した。
浪士組は隊士の募集を行って38名余となり、八木邸だけでは足りず、前川邸なども屯所として利用した。容保は浪士組に不逞浪士の取り締まりと市中警備の任を与える。壬生寺の境内が兵法調練場として利用された。
浪士組は大坂相撲の力士たちと乱闘になり死傷者を出したり、水口藩に宴会を要求した芹沢が島原の揚屋・角屋で大暴れをして7日間の営業停止に追い込むなどの狼藉も目立った。
八月十八日の政変で警備のため出動した浪士組はその働きを認められた。そしてこの頃、新選組(新撰組とも)という隊名を与えられた。
その丁度1か月後、新選組が角屋で宴会をした後、試衛館派の土方歳三や沖田総司ら4名が八木邸の奥の部屋に侵入し、寝入った芹沢らを殺害した。部屋の中には輪違屋の糸里や桔梗屋吉栄といった芸妓が居合わせていた。
こうして水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握して隊規を厳しくし、近藤を局長とする組織を整備した。
元治元年(1864)6月の池田屋事件、8月の禁門の変での活躍で、幕府や会津藩から恩賞を下賜された新選組が第二次隊士募集をかけるなどして200名を超すほどまでに成長し、隊士を収容するため壬生から西本願寺に本拠を移転した。
光縁寺にはその後脱走して捕まり切腹した山南敬助ら新選組とその関係者28名の眠る墓がある。また壬生寺にも近藤の遺髪塔や芹沢ら3名の墓と7名の合祀墓がある。
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