筑後 柳川城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①水門

 

訪問日:1984年10月

 

所在地:福岡県柳川市

 

 30年以上前に、修学旅行で川下りを体験した時にくぐった水門の写真だけである。

 

 蒲池鑑盛(宗雪)は天文12年(1543)父・鑑久が将軍・足利義晴に供奉するという役目を怠ったとして、主君・大友義鑑により討伐されたことから、家督を継いだという。

 

 その後も大友氏に臣従し、筑後南部の1万2千町(約12万石)を領する筑後十五城筆頭大名として、現在に残る柳川城の水濠を縦横に巡らせ、「柳川三年、肥後三月、肥前筑前朝飯前」と謳われるほどの堅城にした。

 

 天文14年(1545)肥前の龍造寺家兼(剛忠)とその曾孫・隆信が鑑盛を頼って来た時には、これを匿って手厚く保護し、翌年にはその再興を支援している。

 

 さらに天文20年(1551)には龍造寺本家の家督を奪取していた隆信が、これに不満を持つ家臣により肥前を追われ、再び鑑盛を頼って筑後に逃れ、2年後にまたも鑑盛の援助で復帰を果たしている。

 

 大友氏家臣としては、天文23年(1554)から永禄4年(1561)まで断続的に続く毛利氏との門司城の戦いや、永禄10年(1567)大友氏に叛いた高橋鑑種討伐戦などで武功を重ねている。

 

 元亀元年(1570)の主君・大友義鎮(宗麟)が肥前に勢力を拡大する隆信と戦った今山の戦いでは龍造寺氏の本拠・肥前村中城(佐嘉龍造寺城)を攻めた。

 

 天正6年(1578)島津氏との耳川の戦いでは、病をおして嫡子(次男)・鎮漣、三男・統安とともに3千で日向に出陣するが、鎮漣が2千の兵とともに戦線を離脱、大友氏は大敗し、残った鑑盛(59歳)は統安とともに討死した。

 

 鎮漣は義父である隆信を頼ってこれに臣従したが、やがて対立して天正9年(1581)隆信の2万の大軍に柳川城を包囲されるも、堅城ゆえに和睦となる。

 

 しかし同年、肥前に呼び出された鎮漣は隆信により、家老である庶兄・鎮久とともに討ち取られた。鎮漣の妻・玉鶴姫は父が夫を殺害したことを知り、自害している。

 

 鑑盛の子孫は数多く伝えられているが、統安の子・応誉は柳川藩祖・立花宗茂正室の誾千代の菩提寺・良清寺の開祖となり、その子・統鎮は柳川藩士となり、現在までその子孫を伝えている。あの大物歌手もその一人だそうだ。