豊後 杵築城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①模擬天守

イメージ 2②天守からの眺望

イメージ 3③二の丸

イメージ 4④御殿石垣

イメージ 5⑤勘定場の坂

イメージ 6⑥飴屋の坂

 

訪問日:2002年5月

 

所在地:大分県杵築市

 

 木付氏は大友氏の庶流で、16代・木付鎮直は大友義鎮(宗麟)から父・鎮秀、弟・鎮之とともに偏諱を賜っている。

 

 天正8年(1580)田原親貫が大友氏に叛いて安岐城に籠ったため、義鎮の嫡男・義統の命令でこれを攻めたが、背後を衝かれて鎮秀・鎮之が討死する。

 

 天正14年(1586)島津氏の豊後侵攻において、鎮直は木付城(杵築城)に籠り、新納忠元の軍勢を退けた。

 

 文禄の役において鎮直の子の17代・統直が嫡子・直清とともに吉統(義統)に従って朝鮮に出陣していたが、文禄2年(1593)鳳山の戦いで直清が討死する。

 

 さらにこの時の吉統の撤退が豊臣秀吉の逆鱗に触れて大友氏が改易されると、統直は帰国途上の門司の浦(関門海峡)で入水自殺してしまう。

 

 これを知った鎮直も妻とともに木付城で自害し、木付氏は滅んだ。


 

以下、パンフレットより

 

杵築(木付)城の歴史

 

 大友氏2代親秀の6男親重は、建長2年(1250)、鎌倉幕府から、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、七千石を領し,地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城した。城は、竹ノ尾城と呼ばれたが、いわば木付城の起源といえよう。
 ところで、木付氏4代頼直は、時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により、海と断崖に囲まれた、要害堅固の台地(城山)に城を移築することにした。城は応永元年(1394)9月11日に竣工、木付城と称した。
 木付城はまたの名を、台山城・臥牛城ともいうが、台山の名は築城台地にちなみ、臥牛は台山の形状が、牛の寝た姿に似ていることに由来する。
 また、木付氏16代鎮直の時代、木付城は島津義弘の武将、新納武蔵守勢の猛攻をうけたが、天正15年(1587)2月22日、これを撃退した。以来勝山城といわれるようになった。
 それから6年後、宗家大友義統は、朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りにふれ大友氏は滅亡する。義統の軍に従った木付氏17代統直は、帰国の途中、門司の浦で、大友除国の悲運をなげき、自刃入水した。この悲報は、ただちに木付城中の父鎮直に届き、鎮直夫妻はともども城内で自害した。文禄2年(1593)6月25日。ここに木付氏17代、344年間にわたる、統治の幕は閉じた。
 文禄3年(1594)、豊後国の太閤検地は終り、翌年、寺社奉行前田玄以が入部し、2年後には杉原長房に代り、杉原氏は木付城を、地続きの北方平地へ移すことに着手した。だが、細川忠興・小笠原忠知と、藩主の交代相つぎ、正保2年(1645)には、能見松平英親が、3万2千石で城主となり杉原氏が手がけた、城の平地移転を完了した。
 正徳2年(1712)、3代藩主松平重休のとき、徳川6代将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が杵築と書き違えられていた。そこで幕府に伺いをたてたのち、木付を杵築と書くことになった。
 松平氏は、初代英親より10代親貴まで、227年間、杵築(木付)城主として治藩したが、明治4年(1871)廃藩となり、ここに木付氏以来622年にわたる、杵築城も姿を消した。
 昭和45年10月、市内外有志多数の協賛をえて、新杵築城落成のはこびとなり、ここにかっての城跡の地に、ありし昔を偲ぶことになった。