陸奥 勝岡城(平沢要害) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①勝岡城跡

 

訪問日:1998年10月

 

所在地:宮城県刈田郡蔵王町

 

 上杉景勝が慶長3年(1598)会津120万石に転封された時に刈田郡白石城2万石の城代となった景勝の家臣・甘糟景継が慶長4年(1599)に築いたといわれている。

 

 慶長5年(1600)の上杉征伐で刈田郡は伊達政宗の侵攻を受け、若松城に詰めていた景継に代わり甥の登坂勝乃が白石城を守っていたが、地理に明るい伊達軍の前になすすべなく7月25日降伏した。

 

 白石城にはかつて政宗に滅ぼされた畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門が徹底抗戦を主張したが、勝乃は右衛門を謀殺して降伏したという。勝岡城も落城したと考えられるが、関ヶ原の戦いの後、刈田郡はそのまま政宗の所領となった。

 

 景継は上杉氏の米沢移封後も景勝から6,600石を与えられたが、62歳となった慶長16年(1611)、理由は不明だが故あって自害し、家は取り潰された。

 

 次代の上杉定勝により景継の子供たちは寛永元年(1624)200石で上杉家に復帰したが、次男の信綱(洗礼名ルイス)は寛永5年(1629)米沢で家族と共に斬首された。

 

 信綱は平成19年(2007)日本におけるキリスト教殉教者187名中の1人として列福されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

勝岡城由来

 

 この館は勝岡城又は臥牛館とも称し山形県史によれば応永9年に伊達氏より国分河内入道が賜ったものとされている。又一説には天正19年頃に上杉家の将甘糟備後守の築城した城とも伝えられるが詳らかでない。降って慶長末に伊達家の着座高野家15世光兼平沢の地百貫文(1200石)を賜り家中70余を引きつれ、伊具郡丸森郷より移住し、この城を中心に町割をして平沢要害を形づくった。城館の規模は本丸と二の丸を土塁で囲み南方には広く堀を巡らし家中足軽等の屋敷を区別し、ここに約100戸の市街を形成したのである。高野家は明治維新まで9代にわたり二百余年この城に居住した。禄高は版籍奉還の時に1650石、家臣は49名、足軽27名であった。尚この城には寛文年間に起った伊達騒動の時原田甲斐の孫二名を預かり藩命により処刑しているが、それは16世可兼の代のことである。             

 

昭和53年3月31日  蔵王町教育委員会