①標柱
②館跡
③眺望
④案内図
訪問日:1998年3月
所在地:宮城県刈田郡蔵王町
チャシとはアイヌ民族が築造した施設で、山の上にあって割木の柵を巡らせた施設であるとされ、一般的になったのは16世紀から18世紀の近世アイヌ文化期にシャクシャインを代表とするアイヌ民族が和人と戦う中で多くが築かれたと考えられている。
言語学者の金田一京助は中世の東北地方に数多く残る館(たて・たち)と語源を同じくすると考えたそうだが、最近ではアイヌ族を古代の蝦夷の末裔とする説は否定的だそうだ。
蝦夷は古くは「愛瀰詩」(神武東征記)、そして「毛人」と表記され、ともに「えみし」と訓まれ、大和朝廷から見て東方や北方に住む人々を異端視した呼称であり、この言葉が示す人物や地方は時代とともに変化している。
近世以降になって蝦夷は北海道とその周辺地域に住む先住民族であるアイヌ民族を指すようになったので、この館を古代アイヌによるものとするのは恐らく不適で、古代蝦夷の~であろう。現在の案内板がどのように表記されているかは不明である。
以下、現地案内板より
この館が文献に現われるのは、延宝年中(1673)の「仙台古城書上」で、兵衛館城とあり城主が横尾兵衛と伝えられることから、館の呼称となったものと思われる。
安永元年(1772)の封内風土記には、兵糧館と記され、志津摩信濃守の居城とも伝えている。この館が横尾、志津摩氏の居城としてどのような働きをしていたかは、文献が乏しいので詳ではない。
安永元年(1772)の封内風土記には、兵糧館と記され、志津摩信濃守の居城とも伝えている。この館が横尾、志津摩氏の居城としてどのような働きをしていたかは、文献が乏しいので詳ではない。
またこの館は、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかという説もある。チャシとは、砦、館、柵囲いを意味し、肩部に堀や柵をめぐらした丘陵の上部の平場のことで、所現当初は宗教的なむらの祭祀や集会の場であったものが、やがて城塞的なものとなり、中世には地方豪族の合戦の砦と変化してきたものと思われる。 ともあれ初見の兵衛館が、兵糧館と呼称は変わったが、平場(郭)、空堀、土塁、通路などの遺構が、ほぼ完全に残っている貴重な遺跡である。
昭和61年9月 蔵王町教育委員会
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