伊豆 堀越御所 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①伝堀越御所跡

イメージ 2②御所跡カラ守山ヲ望ム

イメージ 3③御産所

イメージ 4④史跡案内図

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:静岡県伊豆の国市

 

 享徳3年12月27日(1455年1月15日)鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を鎌倉の自邸に招いて殺害、さらに上杉家家宰・長尾実景・景住父子も成氏側近に殺害されたことから享徳の乱が始まった。

 

 翌康正元年(1455)幕府は駿河守護・今川範忠に成氏討伐を命じ、範忠は成氏が上杉氏討伐で留守となっていた鎌倉を錦旗を掲げて占領した。

 

 鎌倉勝長寿院門主の成氏の兄・成潤が上杉方に通じたため、成氏は鎌倉帰還を断念して下総古河御所に入り、以降古河を本拠にして古河公方と呼ばれた。

 

 将軍・足利義政は、長禄2年(1458)異母兄・政知を還俗させた上で正式な鎌倉公方として関東に送ったが、政知は関東の武士たちの支持を得られなかったため鎌倉に入れず、伊豆の堀越に入り、堀越公方と呼ばれた。

 

 以降、両陣営が熾烈な攻防を繰り返すが、この間、成氏は幕府が主導する改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。

 

 文明8年(1476)関東管領上杉家の家宰を父から継げなかった長尾景春が鉢形城に挙兵、戦況の悪化に危機感を抱いた関東管領・上杉顕定や関東執事・上杉政憲は、文明10年(1478)幕府への仲介を約束して成氏と和睦した。

 

 文明14年11月27日(1483年1月6日)成氏は幕府とも和睦し、関東は引き続き成氏が統治し、伊豆の支配権のみ政知に譲ることとなった。

 

 和睦に不満の政知は長享元年(1487)次男・清晃(後の11代将軍・義澄)を京都に送り義政と対面させ、長男・茶々丸を廃嫡して3男・潤童子を後継者とし、これに反対した政憲を自害させた。

 

 清晃・潤童子の生母と姻戚関係にある管領・細川政元と結んで幕府の政策変更を狙ったが、延徳3年(1491)病に斃れて頓挫した。享年57。政知の死から3か月後、茶々丸は潤童子とその母親を殺害して堀越公方の座を強奪した。

 

 明応2年(1493)4月、10代将軍・足利義材(義稙)が政元らに追放され、義澄が擁立される(将軍就任は明応3年)。明応4年(1495)、将軍の母と弟を殺した反逆者を討つという大義名分のもとに駿河興国寺城主・伊勢宗瑞により茶々丸は伊豆から追放される。

 

 茶々丸は伊豆奪回を狙って山内上杉氏や甲斐武田氏を頼るが、明応7年(1498)甲斐で宗瑞に捕捉されて自害した。享年22歳とされる。宗瑞(北条早雲)は韮山城を整備して伊豆を平定する。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡  伝堀越御所跡

 

・所在地 静岡県田方郡韮山町四日町及び寺家地区

・指定年月日及び面積
 昭和59年10月8日 指定   14,083.05平方メートル
 昭和62年9月8日 追加指定 13,130.94平方メートル
 総指定面積         27,213.99平方メートル

・指定理由
 20回に及ぶ発掘調査で発見された園地(庭園内の池)や、中国から輸入された高級な焼き物などから、鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に、室町時代の堀越御所がつくられたことがわかりました。
 このことから、日本の中世(鎌倉・室町時代)の歴史を物語る重要な遺跡ということで、国の史跡に指定されました。

・守山を中心とした中世遺跡群
 伝堀越御所跡周辺には、史跡願成就院跡をはじめとして中世の寺院群や、御所之内遺跡(一部は北条氏邸跡として国指定)などの遺跡群が連なっています。
 この近くには、伝北条政子産湯の井戸、御所の庭にあったと伝える七つ石などが存在しています。

・史跡公園に向けての構想
 町では、このような重要な史跡を皆さんに開放して、郷土の歴史を再発見し、歴史の町・韮山町に誇りをもっていただけるよう、史跡公園とする構想をたてています。
 現在、栃乃買い上げを進めていますが、終了しだい発掘調査を実施し、その結果をもとに復元・整備をして史跡公園としていく予定です。

 

平成8年3月 韮山町・韮山町教育委員会

 

 

幕府の関東支配の拠点 国指定史跡・伝堀越御所跡

 

 伝堀越御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
 室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越の地に居館を作って身を落ちつけました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、その子「茶々丸」の時に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。
 発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができます。

 

 堀越御所跡の発掘調査では庭園の池や鑓水(導水路)が発見されています。また、周辺の発掘調査によって御所跡とその周辺は溝によって碁盤の目のような区画がされている様子が明らかになっています。
 発見された池の岸は人頭大の石によって護岸されていたり、河原石を敷き詰めて州浜状の池岸が作られていました。一つの池に様々な護岸の変化をつくり庭園の景色に変化を持たせていたことが分かりました。
 これまでの発掘調査では堀越御所跡の建物がどこにあるのか明らかになっていません。今後発掘調査を実施して、建物跡の位置を確認して堀越御所跡の実態を明らかにする必要があります。