陸奥 一関城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭千畳敷

イメージ 2②二の郭の日本庭園

イメージ 3③磐井川の眺望

イメージ 4④切岸

 

訪問日:1997年2月

 

所在地:岩手県一関市

 

 元和7年(1621)55歳になった伊達政宗の10男として生まれた伊達宗勝は、寛永18年(1641)から一関を領した。

 

 万治元年(1658)異母兄の仙台藩2代目藩主・伊達忠宗が亡くなり、当時19歳の六男・綱宗が家督を継ぐと、叔父である38歳の宗勝と綱宗の庶兄で田村氏を継いだ22歳の田村宗良が藩政を見た。

 

 宗勝は嫡子・宗興の正室に幕府大老・酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との強い繋がりを持ち、綱宗は後西天皇と母親同士が姉妹の従兄弟関係であった。

 

 宗勝は放蕩三昧だという綱宗に干渉し、筑後柳川藩主・立花忠茂(妻は綱宗の姉)、備前岡山藩主・池田光政(忠宗正室の甥)、丹後宮津藩主・京極高国(忠宗の義弟)といった親族大名に相談し、幕府老中・酒井忠清に提訴した。

 

 しかし、綱宗の態度は変わらず、万治3年(1660)家臣と前述の3大名の連名で幕府に綱宗の隠居と嫡子亀千代(綱村)の家督相続を願い出て、綱宗を21歳で隠居させ、2歳の亀千代が家督を継いだ。宗勝は同年に一関で正式に3万石の分知を受け、大名となった。

 

 仙台藩の藩政は立花忠茂の信任を得た奉行の奥山常辰が中心となり、集権化政策を進めてきたが、藩内の不満が鬱積して寛文3年(1663)に失脚、以降は宗勝が実権を掌握し、奉行の原田宗輔らを用いて藩政を専横した。

 

 反宗勝派との対立は寛文11年(1671)ついに伊達騒動(寛文事件)に発展し、宗勝は責任を問われて一関藩は改易となり、宗勝は土佐藩・山内豊昌預かりとなり、延宝7年(1679)配所で亡くなった。(享年59)

 

 嫡男・宗興は小倉藩、その妻子は宇和島伊達氏の支藩・伊予吉田藩、側室2人と子女4人は岩出山伊達家預りとなった。

 

 一関藩領は一旦仙台藩に収公されたが、延宝9年(1681)に田村建顕が岩沼から移され、一関藩が再興された。実際は、宗勝や田村氏は一関城のある釣山の麓に陣屋を構え、藩政時代、釣山は立ち入り禁止とされていた。