陸奥 船岡城(舟岡要害) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①白石川越しの遠景

イメージ 2②曲輪跡の桜

イメージ 3③曲輪跡の桜

 

訪問日:1991年4月

 

所在地:宮城県柴田郡柴田町

 

 豊臣秀吉の愛妾だった香の前(種)は後に伊達政宗の側室となって一男一女を産み、さらに家臣の茂庭綱元の側室となっていた。元和4年(1618)42歳になった香の前は息子の亘理宗根に引き取られ高清水城で余生を過ごし、寛永17年(1641)に亡くなった。

 

 宗根の姉・津多は政宗の重臣の船岡城主・原田宗資に嫁ぎ、元和5年(1619)に嫡男が生まれるが、宗資が元和9年(1623)に42歳で亡くなったため、5歳で原田氏19代の家督を継ぎ、宗輔と名乗った。

 

 時は移り、宗輔(通称・原田甲斐)も42歳となった万治3年(1660)、仙台藩3代目・21歳の伊達綱宗が放蕩三昧を咎められ、強制的にわずか2歳の亀千代(後の綱村)に家督を譲り、隠居させられた。

 

 幼い亀千代の後見者となった支藩・一関藩主の伊達宗勝(通称兵部・政宗10男)が実権を握り、奉行主席の宗輔もこれに追従した。やがて家中は宗勝派と反宗勝派の真っ二つに分かれて対立していく。

 

 こうした中、涌谷伊達氏の伊達宗重(通称安芸・宗根の義理の甥)と宗勝の甥・伊達宗倫(通称式部)の間に所領紛争が起こり、裁定に不満の宗重は幕府に宗勝の専横を上訴した。

 

 寛文11年(1671)3月27日、幕府の評定を受けるため大老・酒井忠清邸に召喚され、大老以下老中全員と幕府大目付が列座して審問が行われるが、宗輔はその控え室で宗重を斬殺、老中たちの部屋に向かって突入していった。

 

 反宗勝派の柴田朝意と斬り合いになり、蜂屋可広もこれに加勢するが、混乱した酒井氏家臣に3人とも斬られて死亡した。宗輔享年53。

 

 綱村は幼少のためお咎めなしとなったが、宗勝の一関藩は改易となった。原田家は以下の通り、男子は養子に出された者も含め全員切腹、斬首、女子は他家お預けとなり、一家断絶した。

 

(原田家の処分)

 

 母・津多(74):亘理伊達家預り
 妻・津田頼康娘:水沢伊達家預り
 長男・原田宗誠(25):切腹
 宗誠妻・辰(茂庭定元娘):長女・藤とともに茂庭主水預り
 宗誠長男・原田采女(4):斬首
 宗誠次男・原田伊織(1):斬首

 

 次男・飯坂輔俊(23):切腹
 輔俊妻:長女とともに古内主膳預り

 

 三男・平渡喜平次(22):切腹

 

 長女:北郷隆次室

 

 

以下、現地案内板より

 

 藩政時代、舟岡要害と呼ばれたこの地は、中世、柴田館、四保館などとも呼ばれ、周囲は沼や堀、川にかこまれ、峻嶮な地勢と相まって、まさに天然の要害というべき山城である。
 鎌倉時代のはじめ芝田次郎がこの城に拠り源頼家の命をうけた宮城四郎により攻め亡ぼされたことが「吾妻鏡」にでている。
 16世紀のはじめに、柴田家の祖、四保但馬定朝の居城となる。
2代宗義の時、四保氏を柴田氏に改めた。
 文禄2年(1593)志田郡桑折に所替えとなる。
 その後、船岡の地は屋代勘解由兵衛の所領となり、元和3年(1617)原田甲斐宗資が牡鹿郡大瓜より転封され、寛文11年(1671)伊達騒動により甲斐宗資一族は亡んだ。
 天和元年(1681)6月、柴田宗意(外記朝意の子)が登米郡米谷より、再び船岡の領主となり、元禄7年(1694)この地(三の丸)に居屋敷を築造し、以来170余年を経て明治維新におよんだ。
 明治2年の春、建物の一切が焼失し、当時台所にあった古井戸だけが残っている。大手門は三の丸の東麓ほぼ中央にあり、詰めの門にいたる坂道は「く」の字を呈し、「みだれ坂」と呼ばれ、今もおもかげをとどめている。

 

昭和60年11月 柴田町教育委員会