①極楽寺坂
②亀ヶ谷坂
③巨袋呂坂
訪問日:1998年7月(①) 2001年12月
所在地:神奈川県鎌倉市
元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が上野で150騎ばかりの鎌倉幕府打倒の兵を挙げる。9日に足利高氏(尊氏)の嫡男・千寿王(4歳)が加わるなど、総勢20万以上といわれる大軍に膨れあがった。
迎撃に来た北条(桜田)貞国を11日に小手指原、12日には久米川の戦いで破り、貞国は分倍河原まで撤退する。幕府は北条高時の弟・泰家を大将とする10万の軍勢を送り、貞国と合流する。
2日間の休息をとった後、15日に義貞は幕府軍への攻撃を開始、しかしこの日は幕府軍が義貞軍を圧倒した。一度は敗走した義貞だったが、16日未明、早くも軍を立て直して幕府軍を急襲、壊滅させる。泰家は命からがら鎌倉に逃げ帰った。
すでに5月7日には高氏により六波羅探題は陥落し、9日には北条仲時以下一族432名が近江蓮華寺で自刃していた。分倍河原の敗戦で追い込まれた幕府は鎌倉七口の切通(極楽寺坂・大仏・化粧坂・亀ヶ谷・巨袋呂坂・朝比奈・名越)を固めた。一方攻める義貞の軍勢は60万(太平記)に膨れ上がったという。
藤沢まで兵を進めた義貞は18日、軍を3つに分け、中央の化粧坂に義貞・脇屋義助兄弟の主力、右翼・極楽寺坂に大舘宗氏と江田行義、左翼・巨袋呂坂に堀口貞満といった陣容で鎌倉攻撃を開始した。
北条(大仏)貞直が守る極楽寺坂は堅固で、宗氏は一部の兵を率い、岬に回って稲村ヶ崎の波打ち際から鎌倉に突入したが、幕府軍に囲まれて討死した。
妹婿の高氏に裏切られた執権・北条(赤橋)守時は、巨袋呂坂から出撃を繰り返してついに討死するが、新田軍はここを突破することはできなかった。
義貞・義助兄弟も北条貞将が守る化粧坂を攻めあぐね、21日に義貞はここを義助に任せ、極楽寺へと転戦する。そしてその日の夜、稲村ヶ崎を突破し鎌倉に突入した。(このあたりの戦局は諸説あり)
これをきっかけに化粧坂・極楽寺坂・巨袋呂坂の三口も破られ、22日に貞直・貞将も討死、得宗・北条高時ら北条一門は菩提寺の東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡した。