相模 鶴岡八幡宮/大蔵御所 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①鶴岡八幡宮

イメージ 2②大蔵御所

 

訪問日:1998年7月

 

所在地:神奈川県鎌倉市

 

 長元元年(1028)平将門の外孫・平忠常が安房国府を襲い、安房守・平維忠を殺害した。朝廷は桓武平氏の嫡流の直方に討伐の勅命を下し、直方は鎌倉の大蔵に居館を構え、そこを拠点に東海・東山・北陸の三道の兵を率いて戦うが、忠常は手強く、やむなく持久戦に持ち込み、忠常を追い詰めていた。

 

 しかし、長元3年(1030)朝廷は直方の討伐を手ぬるいと判断して召喚し、新たに忠常のかつての主君であった河内源氏の源頼信とその嫡男・頼義に討伐を命じた。疲弊していた忠常は翌春に降伏した。

 

 長元9年(1036)頼義は相模守に任じられ改めて東国に下向、その在任中、直方にその武芸を気に入られてその娘を娶り、鎌倉大蔵の居館、所領、郎党を譲り受ける。そして二人の間に義家・義綱・義光が生まれ、河内源氏はここを基盤に平氏に代わり東国支配を固めていく。

 

 康平5年(1062)前九年の役で安倍貞任を討った頼義は、翌康平6年(1063)由比郷鶴岡に河内源氏の氏神・壺井八幡宮(河内国石川郡壺井)を勧請し、鶴岡若宮として八幡神の分霊を祀ったのが鶴岡八幡宮の起源である。

 

 時が移って治承4年(1180)平家打倒の兵を挙げ、関東を平定した源頼朝は父祖ゆかりの鎌倉大蔵に御所を構え、その西方の現在地に鶴岡若宮を移す。この大蔵御所(幕府)と鶴岡八幡宮を中心に鎌倉は発展を遂げていく。

 

 建保7年(1219)鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に襲われて亡くなり、また年号が改められた同年(承久元年)には大蔵御所が焼失し、その後の将軍の御所は仮御所を経て宇都宮辻子御所、若宮大路御所と移転していった。

 

 鶴岡八幡宮は多くの武家の崇敬を集めたが、戦国時代になると衰退して大永6年(1526)には相模の北条氏綱と安房の里見義豊の戦いによる兵火で焼失してしまう。

 

 天文元年(1532)から氏綱による再造営事業が始まり、天文9年(1540)上宮正殿が完成して盛大な落慶式が執り行われたが、その後も事業は継続され、氏康の代の天文13年(1544)に完成した。後北条氏がこの事業を主導するということはかつての源氏、執権北条氏、鎌倉公方といった東国武家政権の後継者であることを意味するものであった。ゆえにこの事業に上杉氏は協力していない。